24年の人生で一度だけ、妊娠検査薬を買ったことがある。
その時、私は4歳だった。休日だったが父は仕事でおらず、母と二人きりの昼さがり。
母は私に1枚のメモ用紙を握らせて、そこに書かれたものを買いに行くために私はひとり歩いて薬局へ向かった。
よくお豆腐屋やスーパーにお使いに行っていたので、頼まれたものを一人で買いに行くことに何の抵抗もなかった。ただ一つ、私に紙を握らせた母が、何だかもじもじと恥ずかしそうにしていたことに、違和感を感じながら。
薬局に着くと、母に言われた通り、握っていた紙を若い男性の薬剤師に見せた。
その瞬間のぎょっとした顔を、私はおそらくずっと忘れないだろう。母の違和感を思い出し、私は薬剤師を見詰めた。
「お母さんに頼まれたの?」「はい」という短い会話のあと、直方体の箱を袋に入れて渡され、私は母から預かっていたお金を払った。家へ帰って母に渡すと、ほっと安心したような顔をしていた。
「ゆうかちゃん、弟か妹ができるかもしれへんよ」
母が嬉しそうにそう言ってきたのは、私が一人でおままごと遊びに夢中になっていた夜だったか。
この時の記憶はここまでしかない。
ずいぶん経って、4歳のお使いを唐突に思い出したのは、小学6年生ぐらいだったと思う。おそらく少女マンガか雑誌から、妊娠検査薬という存在を初めて知った。それは細長く、直方体の箱に入って薬局に売られていると知った瞬間、突然記憶が生々しく甦った。
違和感を感じた母の様子、薬剤師の顔、「ゆうかちゃん、弟か妹ができるかもしれへんよ」という母の言葉。
その頃の私はもう、授業だとか友達だとかから、人が営んでいる隠された世界のことを知り始めていた。そして、そのことに対して、私はいつも嫌悪感を抱いていた。
猛烈に、母を腹立たしいと思った。4歳だからって何もわからないって思ってたよね、と6年生の私は当時のことを責めてみたい衝動にかられた。
意地悪な気持ちを腹に抱えたまま、結局、私は母を問い詰めるようなことはしなかった。
そして24歳の現在、生命や性の視点を持った今でも、急に、ときどきふっと小学6年生の意地悪な気持ちが甦る瞬間が訪れる。
山田詠美の「晩年の子ども」の解説に、こんな一文がある。
「この世は、顕在化している部分と、見えない隠状している部分との、複合でなりたっている。そして子どもの頃にうまく隠退出来た人は、その隠されている部分の豊かさに気づくのだ。」
中沢新一の「リアルということ」
隠状されている部分の豊かさ、なんて私はまだちっとも知らないと思う。それでも、私にも、ひとりでこっそり隠したい、うっとりするような世界がある。
時々、私は隠されている部分を人に聞いてみることがある。何も知らない天然のふりをして。その時私の中には、意地悪な小学6年生の私がいるような気がする。
隠状されている部分、それは例えば性的な視点の質問に、もちろん答えてもらえないこともあるけれど、私は別に何かを知りたいわけではない。
ただ、誰もが持つ顕在化してる部分と隠状してる部分を、行ったりきたりする時の困ったような表情を、じっと見ていたいのだと思う。
誰かの隠された世界に、私は入っていけない。その寂しさが、少し楽しかったりする。
4歳のお使いの記憶。そこに母の、「母」っぽくない人間らしさを感じて、時々思い出しては、一人でふふふと笑う。