このぐらいの年齢になると、同世代の友人が結婚したり、出産したり、はたまた起業したりということが身近で起こるようになる。そんなの大人のすることだと思っていた。成熟した人にしかできないことだ、と。
21歳のときに留学していたフィリピンでのことだ。住んでいたドミトリーで掃除係として働く、ルイという名前の男性がいた。彼は私と同い年で、ドミトリーで住み込みで働きながら、ルイの妹が出産した子どもである2歳の女の子を育てていた。妹の夫も、妹も経済的に困窮して育てられないから、と言っていた。
彼は働き者だった。同い年に思えないほど大人びていた。
親のすねかじり大学生だった私は、ある日ルイに、「あなたを見ていると自分がとても子どもっぽく感じる」と言った。
ルイは笑って言った。「確かに君は成熟(mature)してないね。」
その通りなのだけど、成熟してないという言葉に私は少なくないショックを受けた。それ以来、matureという単語に遭遇するたびにこの時の恥ずかしさがこみ上げ、何とも言えない気持ちになる。
自分の年齢に精神が追い付いていない気がする。そう思い始めたのは一体何歳のときからなのだろうか。
成熟してないという言葉を実感するのは、いつも自分のことにしか関心がないときだ。
自分のことでいっぱいいっぱい。それは例えば毎日早起きして会社に行って夜疲れ果てて帰ってくるときとか、毎日混んでる電車に乗るときとか、週末にたまりにたまった洗濯物を洗っているときなんかに、感じる。
でも、この生活を選んだのは自分。そしてしばらくはここにとどまり続けるのだろう。
4月に会社に入って、ずっとお腹を壊し続けた。肌にニキビがいっぱい現れ、すがるようにデパートの化粧カウンターで安くないお金を払って化粧水や乳液などを揃えたこともあった。夜になると涙はしょっちゅう出るので、そのたびに凍らせたタオルを目の上に乗せて眠った。
こんなはずじゃない。
自分はこんなもんじゃない。
そう思うことは、私が新人であるがゆえのおごりなのかもしれない。でも悔しさしか、自分を前に進める原動力にできない。
自転車にのるとき、バランスをとるコツは、思い切ってスピードに乗ってしまうことだ。スキーでもスケートでも同じ。勇気を出してぐっと前に体重をかけスピードを出すと、不思議と安定する。ゆっくりのろのろと進む方が、不安定でこけやすくなる。安定するには、ある程度のスピードが必要なのだ。
今の私は、まさに不安定のさなかにいるのかもしれない。26歳の私は、未だにmatureじゃない。相変わらず、自分のことでいっぱいいっぱいだ。
社会人としてスタートした25歳がどんな年だったかと言うと、「こんなはずじゃなかった」年だとしか言えない。でもこれは、スピードに乗る前の助走だと信じたい。飛躍の前の屈伸だと思いたい。
そんな自分への祈りを繰り返して、また明日を迎える。
26歳の誕生日の今日、いつも通り地下鉄をおりて地上に出ると、雲ひとつないつるりとした青空だった。
ささやかな前途を祝してくれているようで、無性に嬉しくなった。