高校時代のある英語の先生の話だ。
当時50代ぐらいのその先生は、いつも奇妙な教え方をした。
教室の中で特定の一人の男子生徒を選び、徹底的に話しかける。一人ひとり生徒を当てていくのではなく、その男子生徒だけに教科書の訳を読ませる。その他の生徒は苗字を呼び捨てにするが、その男子生徒だけは下の名前で呼ぶ。他の生徒には不愛想でそっけないが、その男子生徒には相好を崩し笑顔を見せる。その男子生徒には冗談を言い、イジる。
その先生は、私のクラスだけでなく他のクラスでも特定の一人を見つけ同じような接し方をしていたそうだ。そのやり方はもはや確立された先生の授業スタイルだった。その特定の一人の共通点は、クラスのイジられキャラであり、だからちょっと弱かった。決して先生に歯向かったり無視をしたりしない優しいお調子者が選ばれた。
私はその先生の授業のやり方が理解できなかった。とても苦手だった。別に特定の一人になりたいわけではないが、普通に教えたらいいのにと思っていた。
でも今思う。先生、居場所を作りたかったんだな。
少し前、教室で80人ほどの前で話す機会があった。教壇に立ってみて驚いたのは、聴衆の関心が自分に向いているかいないかは一瞬でわかってしまう、ということだった。これはとても恐怖だった。内容がつまらないとどんどん関心がなくなっていく。「ああ、お願い。離れて行かないで」と心の中で嘆願した。
話を聞いてもらっているとき、そこに私の居場所は存在する。だが、みんなが無関心になるともはや私がそこにいる意味はなくなってしまうだろう。誰も私に関心を向けない瞬間。無関心の砂漠に放り出される恐怖を初めて想像したとき、その先生のことを唐突に思い出した。
高校時代、私が在籍していた理系クラスでは英語が苦手な生徒が多かったように思う。だから数学や物理に比べると、英語の授業にかける集中度は低かっただろう。加えて、その先生は特別話が面白いわけでもなく、また人柄に人気あるというわけでもなかった。いつもむすっとした顔で早口にまくし立てる先生の授業を、一体どれほどの生徒が好意的に、そして関心をもって聞いていたのだろうか。
その先生はきっと、無関心の砂漠の中にいた。だからオアシスのように、心のよりどころのように、特定の一人を見つけた。まわりの関心が自分に向いていなくても、その生徒はイジれる。自分に関心が向くよう冗談を言う。笑いかける。その生徒は弱くて優しいから答える。そうやって無関心砂漠の中でも自分の存在場所を確認していたのかもしれない。
自分が教壇で話すという経験をして初めて、その先生に少しだけ、同情した。哀しさと同時に可笑しみを感じた。
私なら、自分の力で人の関心を引き付けることができないと悟ったとき、一体どうするだろうか。
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