この夏、大学の先輩の香港での調査に同行させてもらった。またそのことは写真を整理してからおいおい書こうと思うのだが、その香港滞在で一つだけ自分にお土産を買った。
これ!
ダヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図で、「両腕を広げた時の長さは背丈に等しい」「身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、さらに両腕を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さになるまであげる。このように伸ばした手足の先を
よぎる円を描くと、その円の中心にこの人のへそが来る。また、両足の先の間の間隔と両足とは正三角形を作る。」 を表したピアスだ。手や足なんか実に繊細に作られていて壊れてしまわないか少し心配だが、気に入ってずっとつけている。
中心の人は40歳頃のダヴィンチ自身だそう。偉大な先輩の気配をいつも耳に感じていたら私もいつか万能人に近づけるだろうか。
2014年9月19日金曜日
2014年9月17日水曜日
長く付き合っている相手がいるっていいなあ
周囲が2組続けて結婚した。それはとてもおめでたいことなのだが、友人である彼女たちには共通点がある。二人とも初めて付き合った相手と長い交際の後、結婚したのだ。一人は5年。もう一人はなんと8年。そのことに少し羨ましさを感じた。一番最初に好きになった人にそれだけ長く対峙できるってなんだか人としてとても誠実な気がしたのだ。 そんな彼女たちに愛される夫はきっと幸せ者だろう。
ハッピーウエディング!
ハッピーウエディング!
2014年9月16日火曜日
運動の秋は気持ちがいい
ここ一週間全く体を動かさない生活をしていたのだが、久しぶりにロードバイクに乗って走ってきた。残暑の中、秋の心地よい風が吹きペダルを漕ぐのが終始爽快だった。翌朝、いつもだったら9時ごろ起きるのが7時に目が覚め、少し筋肉痛は残るが身体が軽いのがはっきりわかる。ついでに思考も前向きになっているような気がする。
来週はロードバイクで淡路島一周(か2分の1周)にチャレンジするので、走れる身体作りをしたい。
来週はロードバイクで淡路島一周(か2分の1周)にチャレンジするので、走れる身体作りをしたい。
2014年9月15日月曜日
ハタチの男の子と話してかつての自分を思い出した話
先日、ある飲み会で20歳の男の子と話した。彼はいろんなことに腹を立てていて、例えば新聞で取り上げられている社会問題に対してもひどく憤っていた。私はその様子を見ながら何だか苦笑いしてしまった。3年前の私とそっくりじゃないか、と。
少し前の私も、色んなことに腹を立てていた。例えば、結婚指輪をつけている人が許せなかった。「あんなの首輪同然じゃないか」「結婚相手がいることをそんなに公に示したいのか」そうやって一人憤っていた。私はこれが嫌い。こういう人は許せない。そうやって怒ることは自分の意思をはっきり表明していて格好いいとさえ思っていた。でも今、私の怒りは視野が狭いがゆえだったのだとわかる。
指輪という目に見える家族の証を身に着けていることで気持ちが穏やかになるのかもしれない。結婚相手がいると示すことで社会的経済的に自立しているという表明が生きていく上で役に立っているのかもしれない。そういう想像力が働くようになったのは恥ずかしながら最近のことだ。
そしてその想像力は自分の体験からしか生まれなかっただろう。例えば、好きな人ができたりして、その人と同じものを身に着けたいという感情が自分にも生まれるのだということを経験して初めて結婚指輪に対して、「首輪同然だ!」だとか短絡的な考え方をしなくなったと思う。そのことから、当事者になるというか(結婚の場合は違うが)、経験したことないものを表面的な知識だけで分かった気になることの危険性も痛感した。
世の中のほとんどのことは複雑で簡単に答えが出せない。「○○とはこういうものだ」「○○は悪だ、善だ」と単純に結論を出すのがいかに危険なことか、そしてその単純な結論に憤ることがいかに的外れか今はわかる。
本など自分で勉強した知識と自分の経験。この二つの側面から、初めて物事は多面的に考えられる。 だが経験によって思考が生み出されることを考えると、経験は知識よりもより大きなパワーを持つ。二十歳の私は、人生経験は少ないのに少し勉強した知識ばかりに頼って、非常に狭い視点で物事を見ていたと思う。
とはいえ、現在23歳の私は23年間なりの狭い世界でしか生きていないわけで、他人から見ると「まだまだ青いな」と思われているに違いない。でもそれは、この先も膨大な経験すべきことが残されていること、そのたびに自分の世界が広がっていくことなのだと思うと年をとるのが少し楽しみになってくる。
さて、冒頭の男の子。「自分も昔はそうだったなあ」とかつての私の姿を勝手に投影してしまったが、私よりもはるかに頭がいい彼は、きっとたくさん人生経験を積み、今の憤りのエネルギーをすぐに柔軟な思考力や広い視野に昇華させていくのだろうなと思う。また、お酒を飲みながらカンカンガクガクの議論を交わしてみたい。
少し前の私も、色んなことに腹を立てていた。例えば、結婚指輪をつけている人が許せなかった。「あんなの首輪同然じゃないか」「結婚相手がいることをそんなに公に示したいのか」そうやって一人憤っていた。私はこれが嫌い。こういう人は許せない。そうやって怒ることは自分の意思をはっきり表明していて格好いいとさえ思っていた。でも今、私の怒りは視野が狭いがゆえだったのだとわかる。
指輪という目に見える家族の証を身に着けていることで気持ちが穏やかになるのかもしれない。結婚相手がいると示すことで社会的経済的に自立しているという表明が生きていく上で役に立っているのかもしれない。そういう想像力が働くようになったのは恥ずかしながら最近のことだ。
そしてその想像力は自分の体験からしか生まれなかっただろう。例えば、好きな人ができたりして、その人と同じものを身に着けたいという感情が自分にも生まれるのだということを経験して初めて結婚指輪に対して、「首輪同然だ!」だとか短絡的な考え方をしなくなったと思う。そのことから、当事者になるというか(結婚の場合は違うが)、経験したことないものを表面的な知識だけで分かった気になることの危険性も痛感した。
世の中のほとんどのことは複雑で簡単に答えが出せない。「○○とはこういうものだ」「○○は悪だ、善だ」と単純に結論を出すのがいかに危険なことか、そしてその単純な結論に憤ることがいかに的外れか今はわかる。
本など自分で勉強した知識と自分の経験。この二つの側面から、初めて物事は多面的に考えられる。 だが経験によって思考が生み出されることを考えると、経験は知識よりもより大きなパワーを持つ。二十歳の私は、人生経験は少ないのに少し勉強した知識ばかりに頼って、非常に狭い視点で物事を見ていたと思う。
とはいえ、現在23歳の私は23年間なりの狭い世界でしか生きていないわけで、他人から見ると「まだまだ青いな」と思われているに違いない。でもそれは、この先も膨大な経験すべきことが残されていること、そのたびに自分の世界が広がっていくことなのだと思うと年をとるのが少し楽しみになってくる。
さて、冒頭の男の子。「自分も昔はそうだったなあ」とかつての私の姿を勝手に投影してしまったが、私よりもはるかに頭がいい彼は、きっとたくさん人生経験を積み、今の憤りのエネルギーをすぐに柔軟な思考力や広い視野に昇華させていくのだろうなと思う。また、お酒を飲みながらカンカンガクガクの議論を交わしてみたい。
2014年9月10日水曜日
夏の反省文
この夏、一つ嘘をついた。誘ってもらったことに対して、家の用事でどうしても参加できませんとお断りした。でも本当は、自分の身の丈に合っていないその内容に参加して自分の何も無さが露呈したら怖いと思って断ったのだ。
後から強烈に後悔した。なんて自意識過剰だろうと。何も無いなら何も無いなりに行けばよかった。それか、せめて断るときに「私は何も出来ないから怖いのです」と言えばよかった。でもそのときはそんな勇気も出ず、くだらない嘘をついた自分がたまらなく嫌になり部屋で悶々としていた。
そして呆けたような日々を過ごし、ようやくこのままじゃいかんと思い始め、やっとブログを書き始めた次第です。
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