先日、ある飲み会で20歳の男の子と話した。彼はいろんなことに腹を立てていて、例えば新聞で取り上げられている社会問題に対してもひどく憤っていた。私はその様子を見ながら何だか苦笑いしてしまった。3年前の私とそっくりじゃないか、と。
少し前の私も、色んなことに腹を立てていた。例えば、結婚指輪をつけている人が許せなかった。「あんなの首輪同然じゃないか」「結婚相手がいることをそんなに公に示したいのか」そうやって一人憤っていた。私はこれが嫌い。こういう人は許せない。そうやって怒ることは自分の意思をはっきり表明していて格好いいとさえ思っていた。でも今、私の怒りは視野が狭いがゆえだったのだとわかる。
指輪という目に見える家族の証を身に着けていることで気持ちが穏やかになるのかもしれない。結婚相手がいると示すことで社会的経済的に自立しているという表明が生きていく上で役に立っているのかもしれない。そういう想像力が働くようになったのは恥ずかしながら最近のことだ。
そしてその想像力は自分の体験からしか生まれなかっただろう。例えば、好きな人ができたりして、その人と同じものを身に着けたいという感情が自分にも生まれるのだということを経験して初めて結婚指輪に対して、「首輪同然だ!」だとか短絡的な考え方をしなくなったと思う。そのことから、当事者になるというか(結婚の場合は違うが)、経験したことないものを表面的な知識だけで分かった気になることの危険性も痛感した。
世の中のほとんどのことは複雑で簡単に答えが出せない。「○○とはこういうものだ」「○○は悪だ、善だ」と単純に結論を出すのがいかに危険なことか、そしてその単純な結論に憤ることがいかに的外れか今はわかる。
本など自分で勉強した知識と自分の経験。この二つの側面から、初めて物事は多面的に考えられる。 だが経験によって思考が生み出されることを考えると、経験は知識よりもより大きなパワーを持つ。二十歳の私は、人生経験は少ないのに少し勉強した知識ばかりに頼って、非常に狭い視点で物事を見ていたと思う。
とはいえ、現在23歳の私は23年間なりの狭い世界でしか生きていないわけで、他人から見ると「まだまだ青いな」と思われているに違いない。でもそれは、この先も膨大な経験すべきことが残されていること、そのたびに自分の世界が広がっていくことなのだと思うと年をとるのが少し楽しみになってくる。
さて、冒頭の男の子。「自分も昔はそうだったなあ」とかつての私の姿を勝手に投影してしまったが、私よりもはるかに頭がいい彼は、きっとたくさん人生経験を積み、今の憤りのエネルギーをすぐに柔軟な思考力や広い視野に昇華させていくのだろうなと思う。また、お酒を飲みながらカンカンガクガクの議論を交わしてみたい。
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