2014年12月26日金曜日

トビタテ留学JAPAN事前研修感想 それは研修という名の「己を知る時間」だった


2月に控えるフィリピンへの渡航前に、今回奨学生に採用していただいたトビタテ留学JAPANの事前研修に参加してきた。ロバート・キャンベル氏の講演やヤンググローバルリーダーの方のパネルディスカッション、グループでのプレゼンテーションなどとにかく盛りだくさんな内容だったのだが、特に印象に残ったのは「自分の軸の発見」であった。

私は、トビタテに採用していただいたのはありがたいと思うものの、自分の計画がふわふわとした具体性のないものであることがずっと心苦しかった。そういった中での事前研修参加であり、しっかりとした自分の言葉で計画内容を話せないことに非常に焦りを感じていた。

まずこの研修では徹底的に聞いて書いて話して、聞いて書いて話して、を繰り返す2日間であった。そうやって自分を見つめる作業の中で軸として浮かび上がってきたものは、「他者への尊敬」と「文章を書くこと」だった。

恥ずかしながら、私は大学で建築を専攻しつつも今まで建築が好きだと胸をはって言えなかった。設計が得意でない自分にいつも負い目を感じていた。今思えば視野が狭いのだが、設計こそが建築の世界の中で最もキラキラ輝くメインステージのように見えていて、私もそこに立てるものなら立ちたかった。デザイナーを名乗れる人になりたかった。

一方で才能溢れる人たちを目の当たりにして、呼吸をするように図面を書いたり模型を作ったりする人がいて、自分にはその才能は持ち合わせていないのだということも嫌というほどわかっていた。けれど認めたくなかった。出来もしない「設計」にみっともなくすがりつきたかった。

研修の中で自分の軸が「他者への尊敬」と「文章を書くこと」だとわかったとき、なんだかとても納得できた。

私は人が好きなのだ。人の生き方に、暮らし方にとても興味があって、それを文章で表現するとき私の心は最も高揚してわくわくするのだと初めて気づいた。9か月前、トビタテに応募するときに「スラムで調査をしたい」と思った動機は、きちんと自分の軸から生まれたものだったとわかってとても腑に落ちた。

「建築を専攻してどうしてフィリピンなの?」「どうしてスラムなの?」という問いに対しても、「私は人の生活に興味があって、日本の外の異なる文化圏の人が、異なる経済圏の人がどういう生き方をしているのか知りたいのです。そして発見したことをあなたや誰かに伝えたいのです」と胸をはって説明できる気がした。

残念ながらゼロから格好いい造形を生み出すオリジナリティは持っていなかったけれど、それとは別の軸がちゃんと自分にはあったのだ、とわかって嬉しかった。

この二日間、自分一人だとしんどくて考えるのを放棄してしまいそうなことを徹底的に考える時間を与えてもらえて本当にありがたいと思う。(当初怪しい自己啓発セミナーだったらどうしようと疑った自分を反省する。)

奨学金という誰かのお金で調査に行く、ということはちょっぴりプレッシャーを感じることではあるけれど、でもそのプレッシャーはきっと、現地で「もうだめだ」と思った時に少しだけ踏ん張れる力になるのかもしれない。軸がはっきりした今、計画をより具体的なものにしてフィリピンでの経験をきちんと自分の血肉にしたいと思う。

2014年12月15日月曜日

アートアクアリウムで金魚の艶めかしさに打ち震えた



二条城で開催されていたアートアクアリウムを見に行ってきた。

唐突だが、2月21日生まれの私は小学校低学年まで自分の星座を水瓶座だと思い込んでいた。「みずがめざ」という華やかな音の響きが気に入っていたし、水瓶は薄水色のガラスでできたキラキラとした壺に透明な水がたっぷり入っているものだと信じて、その想像上の美しさにうっとりとしていた。

あるとき、「水瓶座は2月18日生まれまでで、2月21日生まれは魚座なのだ」ということを人に言われ、とてもショックを受けた。「うおざ」というもっさりした音の響きに加え、その魚も、でっぷり太った真っ黒な鯉のようなものしか頭に浮かばず、なんだか可愛くなくてずっと好きになれなかった。

だが、私は魚の美しさを、艶めかしさを何も知らなかったのだ。アートアクアリウムを見終えたあと、魚の星の元に生まれたことをひとり感謝した。

以下、その時撮った写真。


尾ひれは薄い絹のよう。目はどこかをみているようで、どこも見ていないようにも思える。金魚の顔は、表情がわからない。


こういう言い方は不謹慎かもしれないけれど、水槽の中で泳ぎ続ける魚たちはどこか死を思わせた。


鑑賞用に交配され、愛でられるためだけに生まれた金魚は、美しくライトアップされた水槽の中で泳ぎ続ける。それこそが死に向かうまでの唯一の存在意義であるかのように。


金魚が自らの死期を悟っているかなんて知る由もないけれど、泳ぎ続ける姿は、静かにその時を待っているように思えてしょうがなかった。


それが、ぞっとするほど艶めかしかった。

2014年12月13日土曜日

[講演感想]建築家伊礼智さん「小さな心地よい居場所に惹かれて」

伊礼智の「小さな家」70のレシピ (エクスナレッジムック)

建築家の伊礼智さんの講演を聞いた。

講演の中では今まで手掛けられたたくさんの住宅の写真を一つ一つ見せて説明された。そしてその住宅には、昼寝のためだけのスペースや絵本を読むためのふかふかのクッションが敷かれた小さな部屋、2畳ほどの茶室のような空間などまさに小さな心地よい居場所がいくつも作られていた。お話を聞きながら私はふと、自分の幼い頃を思い出した。

今から20年ほど前、いつも保育園に迎えに来てくれた祖母の家に帰ると、私の居場所は居間の食卓テーブルの下だった。テーブルの下に潜り込んで脚と脚の間にぺたんと座り、おもちゃで遊ぶのも絵本を読むのも昼寝をするのもその場所だった。そんな私を見て祖母はよく「もっと広いところに来たら?」「そんな暗いところにいると目が悪くなるよ」と言ったが、そこから出てくるようになったのはもう少し身体が大きくなった小学生の頃だった。

テーブルの下の薄暗い感じ、ひんやりとした床の冷たさ、4本の脚の間に自分が収まる感じ。もうその家はないのだけれど、身体はその時の感覚を鮮明に覚えている。

伊礼さんがご自身の作品を一つひとつ説明されるときに、「単純なプランですけど」という言葉を何度も言われた。けれどそのわかりやすく明快なプランの中には、私にとってのテーブルの下のような、たとえその家で暮らすことがなくなっても記憶や感覚に残り続けるだろうなと思える空間がいくつも作られていた。

「自分が作るものは、地味で質素で簡素でいい。でも一目見て人の心を揺さぶるものを作りたい、ということを50歳を超えてやっと思った。」という言葉が印象に残った。

質疑応答の時に一つだけ質問させていただいた。
「一目見て人の心を揺さぶるものを作るためには、どのような勉強、経験が必要ですか。」と。

それに対しておだやかな口調でこう答えられた。
「目を養い、手を練れという言葉があります。とにかくいいものを見て、それを書き写してください。私は吉村順三さんの品のある建築が好きですが、先生や友達にもいい建築は何か尋ね、それをひたすら見て体験してください。」

やはり一朝一夕には身に着くものでないのだなと痛感したが、幼いとき、私は確かに小さな心地よい場所を体験していたのだということを思い出して、なんだかとても嬉しかった。

2014年12月1日月曜日

工場跡に巨大アート、と作ったものいろいろ


先週の3連休の真ん中に、大阪住之江の工場跡地に展示された巨大アート作品を見に行った。

工業地帯を迷いながら、どこにアートがあるのだろうと歩き回った果てにたどり着いたときは、まさに別世界へ連れてこられたような感覚であった。

アートのことは全く詳しくない私だが、思わず「ほー!」と声を上げてしまう作品たち。そしてそれらが「安全第一」と横断幕のかかる無機質な工場跡に並んでいるというのに、全く不自然さが感じられなかった。むしろ巨大アートと広い工場のスケール感はぴったりで、それらを目の前にしていると自分が小人になったような気分だった。


30分に1回動き出す「ジャイアント・トらやん」
お腹の小窓がぱかっと開き、ちっちゃいジャイアント・トらやんが中から出てきた。


東日本大震災からの復興と再生への願いが託されたという「サンチャイルド」
奈良の大仏同様、見上げなければいけないものには見る者に自分の存在の小ささと「守られている感」を感じさせるような気がする。


まつ毛が長くて非常に可愛い。

以下、巨大じゃない作品も面白かった。


車の中から流れるビートに合わせてワイパーが動きライトが点滅する。
自動車が生き物のようだった。


木の枝がプラスチックのパイプでつながれた作品。
流木のような自然さで、けれど自然の木が絶対に生み出すことがない形が作られていた。


四角い箱がいくつも積まれた作品。輪郭があいまいでふーっと息を吹きかけたら崩れそうな繊細さだった。

ということでアートを見て触発された結果、作ったピアスとネックレス。


ちょっとぶさいくな猫になってしまったがフェルトなので着けると耳たぶが暖かい。寒さしのぎにいいかもしれない。


またまた猫ピアス。ペットとしては断然犬派だが、猫のフォルムや表情は大好きだ。


最後に、まるがいっぱい連なったネックレス。

貧乏学生のため冬服を買うお金が無いのが大問題だが、数年前の服でもアクセサリーを代えたらお洒落をしている気になれる、という思い込みでこの冬を乗り切ろうと思う。