建築家の伊礼智さんの講演を聞いた。
講演の中では今まで手掛けられたたくさんの住宅の写真を一つ一つ見せて説明された。そしてその住宅には、昼寝のためだけのスペースや絵本を読むためのふかふかのクッションが敷かれた小さな部屋、2畳ほどの茶室のような空間などまさに小さな心地よい居場所がいくつも作られていた。お話を聞きながら私はふと、自分の幼い頃を思い出した。
今から20年ほど前、いつも保育園に迎えに来てくれた祖母の家に帰ると、私の居場所は居間の食卓テーブルの下だった。テーブルの下に潜り込んで脚と脚の間にぺたんと座り、おもちゃで遊ぶのも絵本を読むのも昼寝をするのもその場所だった。そんな私を見て祖母はよく「もっと広いところに来たら?」「そんな暗いところにいると目が悪くなるよ」と言ったが、そこから出てくるようになったのはもう少し身体が大きくなった小学生の頃だった。
テーブルの下の薄暗い感じ、ひんやりとした床の冷たさ、4本の脚の間に自分が収まる感じ。もうその家はないのだけれど、身体はその時の感覚を鮮明に覚えている。
伊礼さんがご自身の作品を一つひとつ説明されるときに、「単純なプランですけど」という言葉を何度も言われた。けれどそのわかりやすく明快なプランの中には、私にとってのテーブルの下のような、たとえその家で暮らすことがなくなっても記憶や感覚に残り続けるだろうなと思える空間がいくつも作られていた。
「自分が作るものは、地味で質素で簡素でいい。でも一目見て人の心を揺さぶるものを作りたい、ということを50歳を超えてやっと思った。」という言葉が印象に残った。
質疑応答の時に一つだけ質問させていただいた。
「一目見て人の心を揺さぶるものを作るためには、どのような勉強、経験が必要ですか。」と。
「一目見て人の心を揺さぶるものを作るためには、どのような勉強、経験が必要ですか。」と。
それに対しておだやかな口調でこう答えられた。
「目を養い、手を練れという言葉があります。とにかくいいものを見て、それを書き写してください。私は吉村順三さんの品のある建築が好きですが、先生や友達にもいい建築は何か尋ね、それをひたすら見て体験してください。」
やはり一朝一夕には身に着くものでないのだなと痛感したが、幼いとき、私は確かに小さな心地よい場所を体験していたのだということを思い出して、なんだかとても嬉しかった。
やはり一朝一夕には身に着くものでないのだなと痛感したが、幼いとき、私は確かに小さな心地よい場所を体験していたのだということを思い出して、なんだかとても嬉しかった。
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