2015年6月27日土曜日

話すことは快楽

先日、留学経験のある大学生として自分の体験談をインタビューされる機会があった。生い立ちや小学生時代、思春期、大学時代のことについてたくさん質問され、答えた。

ありがとうございます、もう終わりにしましょう、と言われたとき2時間が経っていた。驚いた。私はまだほんの30分ほどしか経っていないような気分だったからだ。

帰り道、わたしはほくほくとした気持ちよさに包まれていた。自分語りをすることってこんなに気持ちいいのか、自分の話を聞いてもらうってこんなに嬉しいのか、とちょっとびっくりしてしまった。それから2日間ぐらいまだふわふわとした気分に包まれており、この気持ちよさは少し危険だと思った。もっともっと、と求めてしまいそうな、ドラッグのような効果があるとさえ思った。

少し話は変わるが、前に東京を訪れた時、渋谷駅前でマック赤坂を見かけた。ポスターでよく見ていた人が、スマイル党ののぼりとともに、ピカピカ光る猫耳型のカチューシャをつけていた。その姿を見て、私は、マック赤坂が国政選挙や地方選挙に出馬し続ける理由が少しわかる気がした。

本当に勝手な想像だけど、この人は、大金を払って出馬して、自分の話をみんなに聞いてもらう、という酔狂な遊びをしているように思えて仕方がなかった。

可哀想な人だとは思わない。だけど、この人もまた、自分語りの気持ちよさに囚われてしまっているのだろうか、という考えが時々ふと心の中に湧く。そして自分はどうか、囚われていないか、と問うてみたくなるのだ。

2015年6月18日木曜日

女子高生への羨望

電車に乗っていると、頭に花かんむりをのせた女子高生のグループを見かけた。お団子ヘアーに白やピンクの花がたっぷりのった冠をかぶって、驚くほど短い制服のスカートをひらつかせていた。

花を盛った彼女たちは、はしゃいでいて、生意気そうで、傍若無人で、世界は自分たちのものだと思っていそうだった。

なんだよ。妖精のコスプレかよ。だいたい花かんむりなんて恥ずかしい。そんな姿、きっとあと5年もしたら赤面するような過去になるのに。

そう私は心の中で、ひとり言をつぶやいた。

その日の私は就職活動の帰りだった。緊張から解き放たれ心身ともにぐったりしていた。

動きにくいリクルートスーツに身を包んだ私には、本当は、彼女たちの軽やかさが羨ましくてたまらなかった。傍若無人さが、眩しいと思った。

彼女たちの姿を横目に見ながら私は、タイトスカートを脱ぎ捨てて、頭に花かんむりをのせて、ミニスカートをひらひらさせて街を闊歩する自分を想像した。それはとても愉快で、格好悪くて、人生がちょっと楽しくなりそうだと思った。

2015年6月10日水曜日

可哀想な恋愛

昨日、紺色やグレーのワンピースを全部クローゼットから取り出し、リサイクルショップへ持っていった。私に少しも似合っていなかったその服たちを、やっと手放そうと思った。

その人と会うとき、私はいつもワンピースを着ていた。男性とデートをするときはとりあえずワンピースを着ておけばいいのだ、という迷信じみた都市伝説を信じて。

不思議なことに、その人から「こういう格好をして」と言われたわけではないのに、私は地味なワンピースこそが、その人と会う時の正解の服なのだ、と思い込んで少しも疑わなかった。おとなしく従順そうな服を着て後ろをついていけば、それでいいのだ。本気でそう思っていた。

どちらからともなく音信不通になり、半年以上たったある日、私はその人のツイッターのアカウントを偶然発見した。それは本当に偶然としかいいようがなく、突然現れた見覚えのあるニックネームに、とてもうろたえた。見てはいけないと思いながらも、震える指はどんどん過去のツイートを遡っていった。

そこには、私が知らなかった相手の日常生活が並んでいた。たくさんのつぶやきの中に、私の存在は1ミリも無かった。悲しみと同時になんだか少し、ほっとしてしまった。なんだ、あなたも私を見ていなかったじゃない、と思った。

もうずっと時間がたった今、お互いに恋心も愛情も思いやりもなかったという事実と、そのことの残酷さに、時々ふと涙が出そうになってしまう。その時の私は、きっと、相手にきちんと向き合っておらず、ただ「付き合っている人がいる私」「一人で寂しくない私」になりたかっただけだった。そして、相手もまた同じ気持ちだったのではないか、と思う。

ワンピースを着てその人の後ろをくっついていれば、今の自分とは違う別の自分になれるのかもしれない。そう思って思考停止していたあの時。それはとてつもなく楽で、だけどいつも虚しかった。そして、これから出会う相手には、精一杯の愛情を注ぎたいと思った。