2012年7月18日水曜日

初回の英語の授業は自分の名前の最初のアルファベットから始まる形容詞を使って自己紹介するという内容でした。が、私はそれを理解せず一人的外れなことを言ってしまい、「みんなの前で何かしてくれたら成績下げないであげるよ」と先生に言われ、まだ名前も知らないクラスメイト全員の前で唯一知っているタガログ語の歌を大声で歌いました。ものすごく恥ずかしかったのですが、これ以来怖いものなしというかすっかり恥に強くなりました。笑

ちょっと変な言い方ですが、恥をかくことに平気になったのは私にとってとても大きなことです。
というのも今まで人前で恥をかくことを極端に恐れ(過ぎ?)ていたなと思うのです。格好悪い、ダサい、イタいと思われたくない、笑われることは恥ずかしいと思っていたのですが、実際自分が思うほど人はそんなの気にしていない。仮に笑われたとしても一時的に恥ずかしいだけで別に失うものなんて無いんだと気づいたとき、自分がこれまで恥をかくことを恐れていたのは何のためだったんだろうと疑問に思いました。

一方で恥をかくというのは若いうちの特権だなとも思います。失うものが無いからこそ恥はかけるのかもしれません。年を重ね生き方がもっと確固なものになるにつれて自分が大事にするものや信じるものが増えていき、だんだん人前では簡単に恥をかけなくなってくるのかもしれないです。

まだ何も守るものも失うものも無いうちはこの恥をかける特権を存分に生かし、いもしない誰かの目を意識して勝手に縮こまるのはやめようと思いました。

2 件のコメント:

  1. すごく共感。自分の大切にしたいと思うことが強くなれば強くなるだけ、それ以外のことの価値が下がっていく。それって、そのことを大切に思う人からするとすごく気分の悪いことやなって、最近つくづく思います。
    新しい文化の中に入ったとき、しっかりとそこの人たちの考えていることを理解して、うまく調整しないとやっていけなくなるね。孤立することになる。でも自分の信念もあるし・・・
    特に今の自分にとって、とても貴重な意見でした!

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    1. コメントありがとうございます!
      人が何を大事に思うかってすごくその人の人格を表すなーと思います。大事にするものが同じ人に出会うと「わかってくれる人がいた!」と簡単に親近感を抱いてしまいますが、この気持ちもちょっと危険だなという気がします。

      生きてきた人生が違えば大事にするものも違って当たり前なのに、自分のことをわかってもらえなかったり逆に相手をどうしても理解できないとき、悲しくなったり腹が立ったりする私は心が狭いなーと痛感しています><

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