2013年12月2日月曜日

私たちは世界の問題とどう向き合うのか

「フィリピンで働くのは本当に楽しい。仕事中でも冗談が飛び交い、笑い声が起こる。誰かが歌いだすこともある。日本でこんな風に働くのはきっと無理だろうと思う。」

マニラでインターン中の友人に会いに行ったときに言われた言葉だ。なるほど、確かにそうかもしれないと思う反面、賛同できない部分もあった。

フィリピン人の陽気さはただの国民性なのだろうか。それを楽しいと言ってしまっていいのだろうか。私には彼らの陽気さにはある理由が潜んでいるような気がしてならない。

ブラカン大学に貼ってあったフィリピンを紹介するポスターが私は忘れられない。それは、ごみ山の前で陽気に笑う少年の姿と「私たちフィリピン人はどんなに辛いことがあってもいつも笑顔を忘れません」という意味の英文が書かれたポスターだ。私はポスターの内容を素直に受け取れなかった。フィリピン人って陽気っでいいな、とは思えなかった。写真の中の少年の笑顔は、全てを諦めたゆえの笑顔であるように見えたからだ。笑顔は一種の思考停止の形だと私は感じる。
 
人が頑張るのは、その先の未來に希望を感じるからだ。歯を食いしばることが出来るのは、その先の成功に期待できるからだ。しかし、もし自分が何も希望を感じられなければどうだろうか。ごみ山でしか生きる術を持たない少年が、豊かな生活に希望を持つことは出来るのだろうか。貧しさから抜け出したくても、その貧しさを自分で解決できると期待できるのだろうか。フィリピン全体に漂うけだるくゆるい空気もまた、崩壊した政治や依然として良いとは言えない経済状況への諦めの気持ちの表れではないのだろうか。私には彼らの陽気さの裏には常に「諦め」という感情が潜んでいるように思えてならない。それでも生きるために、絶望しないために、みな底抜けな明るさをまとっているように見える。
  
この夏、フィリピンで出会った人々は問題を解決しようする希望を持った人たちばかりだった。ミンダナオに平和をもたらす活動を続ける日本大使館。未だ銃弾が飛び交うこの地域で、子どもたちのための学校や、町の人のためにインフラ整備を行っている。海外で仕事を見つけようとするフィリピン人を支えるPOEA。たとえフィリピンの問題は労働力の流出、と世界から言われても、自国を飛び出して海外で生きて行こうとするフィリピン人たちをこれからもPOEAは支援し続けるだろう。マニラでユニカセレストランを経営する中村八千代さん。路上生活や人身売買など危険な目にさらされた青少年たちに雇用の機会を創出している。そしてマニラで暮らす人のためにに美味しく健康的な食事を提供されている。ミンダナオ島にあるハウスオブジョイの烏山さんと澤村さん。過酷な環境で生きるミンダナオの子どもたちに、安全で快適な生活をを与えている。お腹いっぱいご飯が食べられて、学校に行ける、という幸せがそこにはある。2週間あまりだったが実に多様な国際協力の形を見た気がした。

正しい国際協力、なんてものはきっとこの世にないのだろう。社会は複雑で、問題は簡単には解決できないことばかりだ。それでもその複雑さを少しずつほぐしていくように、様々な人が様々な面から解決しようと試みていることを改めて実感した。

さて、タイトルの問いに戻る。「私たちは世界の問題とどう向き合うのか。」この一生かけて答えを見つけていくような問いに今、私なりの答えを出すのなら、それは「しなやかに動き続けていれば世界と向き合える」だ。毎日少しずつ、様々な人が助け合うこの社会を私たちは生きている。決して思考停止せず、笑ってごまかさず、目を背けず、何が役に立つのか、何が必要とされているのか考えつづけること。そして一ミリでも前進し続けること。それがこれからの社会を担う私たちの使命なのだと思う。

特に印象に残っている風景がある。ハウスオブジョイを訪れた時に、連れて行ってもらったウラワビーチだ。そこで泳いでいるときに偶然、魚の群れに遭遇した。彼らは悠々自適に、サンゴの間、水草の間を泳いでいた。真っ直ぐ進んではいない。くねくねと曲がりながら、でも止まらずに泳ぎ続けていた。そのしなやかさがとても自由に見えた。

大きなことをしなくてもいい。止まらず、少しずつ動きつづけていれば、きっといつか正解のない世界の問題と向き合えると私は希望を持っている。決して一直線には進まない、それでも泳ぎ続けるあの魚のような自由さがあれば。

0 件のコメント:

コメントを投稿