2015年10月3日土曜日

名前の言霊

「君の名前の漢字、あんまり見ないけど、どういう意味なの?」

昔、バイト先の社員さんにそう尋ねられた。
かつて親に教えてもらったように、「人のために香りをふりまく、という意味です。」と答えた。
50代半ばほどの社員さんは、「すごくボランティア精神あふれる名前だね」と笑った。

ボランティア精神て。なんだよそれ。

私には、憧れている人たちがいる。「名は体を表す」を体現している人だ。
時々名前と人となりがぴったり一致している!という場面に出会ったとき、私はとても興奮する。

通っていたバレエ教室で圧倒的に上手だった先輩が、舞さんという名前だと知った時、もう私は何もかなわないと思った。かつてドラムを習っていた先生の息子は、鼓太郎くんといった。
藤川球児なんてプロ野球選手になって成功してすごい、フェンシングの選手にでもなってたらどうするのだろうと思う。

その人の職業や趣味との一致以外にも、例えば、「健太くん」は心身ともに健康でがっしりした体型をもつであろうし、「育美ちゃん」はすこやかな美人に違いない。「瞳ちゃん」は、透き通った白目とくりくりとした黒目を持っていて、きっと眼鏡もいらないほど視力がいいだろう。

というのは勝手な想像だけど、私は名と体が一致しているように見える人が羨ましくて、出来ることなら私もそう思われたかった。

「すごくボランティア精神あふれる名前だね」

そう言われたとき、私の名が体を表すためには、他人のために自分を捧げ続けなければならないのか、と思った。
他人の幸福に捧げられる運命である私の人生...。
やだ!もっと主体的に生きたい!

というのは大げさだけど、名と体が一致するには程遠いなあ、とそのとき思った。

そういえば、高校生のとき交換留学で我が家に滞在した女の子は、ローレンという名前だった。その名前にはどんな意味があるの、と聞くと、自分の叔母さんがローレンだからだ、と言われた。「両親の願い、みたいなのはないの?」と聞くと、彼女は「そんなの知らない。」と言った。

こういう人になってほしい、という願いを込めて名前はつけられるものだ、と思っていたから、意味をこめない文化もあるのだと、驚いた。

結局、名前に恥じないように今、生きられているのかは、もうよくわからない。

私にはボランティア精神が宿っているのかもしれないし、はたまた偽善の塊なのかもしれない。
名前には何の意味も無いだろうし、いや実は言霊のように、名霊なんてものに自分の生き様を決定されているのかもしれない。

何か意味を見出して、自分をこういう人なのだ、思うのもいいし、いやそもそも名前など他人と区別する呼び方でしかない、と思うのでもいい。

私は、意味を見出すのが好きなだけ。
「人のために香りをふりまく」女の子は、今日も他人の幸福のために生きるのだと、自分の宿命にうっとり酔うのだ。


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