入学して2度目の遠足。行き先は京都。
男女混合5人の班になり、和菓子づくりや華道、茶道といったいかにも京都っぽいプログラムの中から、第一希望、第二希望、第三希望を自由に選べるというものだった。だが私にとってはどれも退屈そうで、あまり乗り気ではなかった。
中心的な男の子と女の子が和菓子作りでしょ、と言うとすぐに班の総意となった。私は書記係となって、提出用紙に和菓子作りと書く。第二希望は茶道がいいとなったんだか、、まあとにかく文化体験よりもお菓子が食べたいという中学生らしい選択になったと思う。
体験プログラムの一覧表に、私はひときわ気になるものを見つけた。
お寺での座禅体験だ。
どうしても興味が惹かれて、でも提案するのもなんだか恥ずかしい。すっかり和菓子づくりをするもんだ、という雰囲気になっていた班の人たちに、今さら何も言い出せなかった。
行き先を話し合う空気はとっくに無くなって、それぞれがおしゃべりに興じていた。
第三希望の空欄には誰も気を止めていない。私はそこにこっそり、座禅と書いた。
行き先を話し合う空気はとっくに無くなって、それぞれがおしゃべりに興じていた。
第三希望の空欄には誰も気を止めていない。私はそこにこっそり、座禅と書いた。
後日、班ごとの行き先が発表された。はたして私たちの班は...座禅体験だった。
決まったものは今更変えられず、なんだか申し訳ないなと思いながらも心の中では小躍りしたい気分だった。
迎えた遠足当日、一学年200人ぐらいいるが、第三希望でさえ座禅を書いた班は一組もいないらしかった。小雨降りしきる中、5人でお寺に向かう。誰も一言も話さない状況に、申し訳なさがつのった。
お寺に着くと広い畳のお堂に通され、お坊さんが座禅の組み方について説明を始めた。
そして、ひっそりと始まった。
私はすぐに後悔した。途方もなく退屈なのだ。
動き出したくて仕方ない。体が窮屈。背中がかゆいような気がする。髪の毛が首にかかって気持ち悪い。それでも30分間耐えなければならない。時計も無い。地獄かと思った。
しばらくすると、視線の先に一匹の蜘蛛が現れた。一瞬、緊張が走る。心の中で、来ないでと頼む。蜘蛛はじーっと動かなかった。やがてどこかへ行った。怖がらせないでくれてありがとうと、つぶやいた。
そしてだんだん、私はぼーっとすることに集中し始める。頭の中が溶けていくような感覚があった。体がふわふわと揺れている気がした。雨は降り続けている。少し肌寒い風に、秋を感じた。
世界には今、5人の中学生と一人のお坊さんしかいなかった。毎日過ごしている教室は、どこか遠い場所にあった。
目はどこを見ているのか、手はどう置いているのか、感覚がなくなっていく。自分は何をしているのか、ここはどこなのか、わたしという存在が薄れていく気がした。それはとても不思議な、幸福な感覚だった。死ぬなら、こうやって静かに世界から消えていきたいと思った。
座禅は、唐突に終わった。お寺を出ると、私は身体の中にふわふわとした気持ちよさが残っているのを感じた。
これが、人生で初めての座禅体験である。よほど強烈な感覚であったらしく、今でも思い出すとあの時の多幸感が身体の中に流れてきそうだ。
そして最近、私はまた一人で座禅をしている。毎朝、5分だけ。
外の音がうるさいほど耳に入る。鳥の鳴き方の種類が一つではないことがわかる。自分の着ている衣服の重みを感じる。
ほんの思いつきで座禅を始めたが、ほんとはどこかで、中学1年生の座禅体験をもう一度味わいたいと思っている。あの気持ちよさはなんだったんだろう。記憶の中の感覚は、もやがかかったように曖昧で、実体がない。
それでも、見えない幻を追いかけて、今日も私は目を閉じる。
決まったものは今更変えられず、なんだか申し訳ないなと思いながらも心の中では小躍りしたい気分だった。
迎えた遠足当日、一学年200人ぐらいいるが、第三希望でさえ座禅を書いた班は一組もいないらしかった。小雨降りしきる中、5人でお寺に向かう。誰も一言も話さない状況に、申し訳なさがつのった。
お寺に着くと広い畳のお堂に通され、お坊さんが座禅の組み方について説明を始めた。
そして、ひっそりと始まった。
私はすぐに後悔した。途方もなく退屈なのだ。
動き出したくて仕方ない。体が窮屈。背中がかゆいような気がする。髪の毛が首にかかって気持ち悪い。それでも30分間耐えなければならない。時計も無い。地獄かと思った。
しばらくすると、視線の先に一匹の蜘蛛が現れた。一瞬、緊張が走る。心の中で、来ないでと頼む。蜘蛛はじーっと動かなかった。やがてどこかへ行った。怖がらせないでくれてありがとうと、つぶやいた。
そしてだんだん、私はぼーっとすることに集中し始める。頭の中が溶けていくような感覚があった。体がふわふわと揺れている気がした。雨は降り続けている。少し肌寒い風に、秋を感じた。
世界には今、5人の中学生と一人のお坊さんしかいなかった。毎日過ごしている教室は、どこか遠い場所にあった。
目はどこを見ているのか、手はどう置いているのか、感覚がなくなっていく。自分は何をしているのか、ここはどこなのか、わたしという存在が薄れていく気がした。それはとても不思議な、幸福な感覚だった。死ぬなら、こうやって静かに世界から消えていきたいと思った。
これが、人生で初めての座禅体験である。よほど強烈な感覚であったらしく、今でも思い出すとあの時の多幸感が身体の中に流れてきそうだ。
そして最近、私はまた一人で座禅をしている。毎朝、5分だけ。
外の音がうるさいほど耳に入る。鳥の鳴き方の種類が一つではないことがわかる。自分の着ている衣服の重みを感じる。
ほんの思いつきで座禅を始めたが、ほんとはどこかで、中学1年生の座禅体験をもう一度味わいたいと思っている。あの気持ちよさはなんだったんだろう。記憶の中の感覚は、もやがかかったように曖昧で、実体がない。
それでも、見えない幻を追いかけて、今日も私は目を閉じる。
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