コミュニケーションは7%がバーバルで、93パーセントがノンバーバルというリポートを見ました。
本当にその通りだと思います。
私のヒアリング力はまだまだで、聞き取れる英語は全体の60%ぐらいです。相手の話す英語によっては半分しか理解できないこともあります。それでもフィリピンの人々と英語で会話をするのはとても楽しいです。それはきっと、楽しい話は大笑いしながら話し、ときには椅子から立ち上がって身振り手振りを交えて話してくれるから、単語の意味がわからなったり、話すスピードが速かったりして英語が理解できなくても、会話は理解できるのです。
日本人でもお互い分かり合ってコミュニケーションするのは難しいです。同じ言語を使うもの同士でもそうなのだから、言語、文化が違えばそう簡単に分かり合えることなんでできないと思います。でも分かり合えない者同士、価値観の異なる者同士が、なんとかうまくコミュニケーションをとるには、この93%のノンバーバルの部分が非常に重要なのだと身をもって感じました。
2012年4月29日日曜日
2012年4月26日木曜日
信用すること
机の向きを変えてからなぜかネットによく接続できるようになりました。なぜだ??しかしfacebookについてはしょっちゅう、Googleは見つけられませんでしたとメッセージが出ます。なぜだ??
こちらに来て10日以上たちましたがお金に対する価値観の違いに一番ショックを受けました。
フィリピンでは10%が富裕層、5%が中流層、85%が貧困層といわれています。お金はその日の命をつなぐものであり、裕福に見える外国人からもらおうと考えるのは当然かもしれません。
私はフィリピンの人々が好きです。これほどフレンドリーで寛容な人々に出会ったことがありません。ただお金に対する価値観が違うだけなのだと思っています。そしてその価値観の違いに時々苦しみます。私はみんな良い人だと信じています。しかし最後に判断するのは自分一人です。
書いていて苦しくなってきました。ここまでにしておきます。
こちらに来て10日以上たちましたがお金に対する価値観の違いに一番ショックを受けました。
フィリピンでは10%が富裕層、5%が中流層、85%が貧困層といわれています。お金はその日の命をつなぐものであり、裕福に見える外国人からもらおうと考えるのは当然かもしれません。
私はフィリピンの人々が好きです。これほどフレンドリーで寛容な人々に出会ったことがありません。ただお金に対する価値観が違うだけなのだと思っています。そしてその価値観の違いに時々苦しみます。私はみんな良い人だと信じています。しかし最後に判断するのは自分一人です。
書いていて苦しくなってきました。ここまでにしておきます。
2012年4月25日水曜日
回復!
緊張が緩んだのか急に発熱し、しばらく身体がだるい日々でした。が今朝、完全復活しました。
喉の痛みがおさまらず、しかしうがい薬は日本から持って来ていなかったのでドラッグストアで購入することにしました。小さな茶色の瓶に入ったうがい薬とのど飴を買い、ついでに水5リットルと発汗のために辛いスープを買って、あとは自分の免疫力にお願いしました。うがい薬は驚くほど鮮やかなピンク色でちょっと毒々しさすらありました。そしてこれがまた涙が出そうになるほど苦かったのですが、効果はてきめんでした。1瓶すべて使い切ってうがいをすると、翌朝にはすっかり痛みが引いていました。だるさも消え体調も回復しました。身体からの休みたいサインだったのかなと思います。
フィリピンに来てからの生活はもちろん楽しいですが、ストレスがたまることもあります。誰が信用できるのかわからないし、見極めるのは難しいです。良い人だと信じたいけれど、自分で判断をしなければいけないことはなかなかしんどいことです。
信用についての話はまた次回に書きたいと思います。
喉の痛みがおさまらず、しかしうがい薬は日本から持って来ていなかったのでドラッグストアで購入することにしました。小さな茶色の瓶に入ったうがい薬とのど飴を買い、ついでに水5リットルと発汗のために辛いスープを買って、あとは自分の免疫力にお願いしました。うがい薬は驚くほど鮮やかなピンク色でちょっと毒々しさすらありました。そしてこれがまた涙が出そうになるほど苦かったのですが、効果はてきめんでした。1瓶すべて使い切ってうがいをすると、翌朝にはすっかり痛みが引いていました。だるさも消え体調も回復しました。身体からの休みたいサインだったのかなと思います。
フィリピンに来てからの生活はもちろん楽しいですが、ストレスがたまることもあります。誰が信用できるのかわからないし、見極めるのは難しいです。良い人だと信じたいけれど、自分で判断をしなければいけないことはなかなかしんどいことです。
信用についての話はまた次回に書きたいと思います。
2012年4月22日日曜日
一週間
フィリピンに来て一週間がたちました。毎日が濃く長く感じて本当に充実しています。こちらに来てからはお腹を下すこともなく、風邪もひかず、身体の調子は良好です。むしろこちらに来てからの方が早起きするようになり、3食きちんと食べ、大好きなお酒を飲みすぎることもないのでかえって健康でいられるのかもしれません。
フィリピンの人たちは寛容で温かく、笑顔がとても美しいです。日本では、知らない人に笑いかけたらきっと不審がられますが、ここでは知らない人でもすれ違う時にハイタッチしてきたり、車のクラクションをプップーと鳴らして「Hi!」と言ってきたりあまりのフレンドリーさに最初は戸惑いましたが、今ではすっかり楽しんでいます。
明日は誰と出会え、どんな話ができるのかわくわくしながら今日は寝ます。
インタビュー
寮ではなかなかインターネットに接続できません...更新が滞ってしまいました。
土曜日、NSTPの授業の一環でインタビューに行ってきました。現在87歳で17歳のときに戦争を経験された方でした。
インタビューの内容のほとんどは日本兵がフィリピンの市民に対して行った残虐な事実についてで、同じ日本人として聞いていて非常に心が苦しくなりました。過去に起きた事実を一つ一つ思い出しながら、淡々とゆっくり話しておられました。起きた事実ではなく、その女性がどう感じたか、どう捉えたかをお聞きしたかったのですが、それについては答えてもらえませんでした。今思い返すと、その女性の気持ちに踏み込んでいったような質問をしていたかもしれない、と自分の非礼さを反省しています。バタアン死の行進についてもお聞きしましたが、日本にもアメリカにも今は何の悪い感情も抱いていない、ただそういう事実があっただけだと聞いてとても心が痛みました。
第二次世界大戦中、アメリカの基地がフィリピンにあったため日本がフィリピンを攻撃し、フィリピンの人々は戦争に巻き込まれました。やりきれない怒り憎しみは半世紀以上たった今、フィリピンの人々の心にどのような感情となって残っているのでしょうか。
4月9日、米比軍が日本軍に降伏した日をフィリピンでは毎年死んだ兵士、人々へお祈りをする日として定めています。敵でも味方でもないのに日米戦に巻き込まれたフィリピンの方の思いを、私もまた理解できればと思います。
土曜日、NSTPの授業の一環でインタビューに行ってきました。現在87歳で17歳のときに戦争を経験された方でした。
インタビューの内容のほとんどは日本兵がフィリピンの市民に対して行った残虐な事実についてで、同じ日本人として聞いていて非常に心が苦しくなりました。過去に起きた事実を一つ一つ思い出しながら、淡々とゆっくり話しておられました。起きた事実ではなく、その女性がどう感じたか、どう捉えたかをお聞きしたかったのですが、それについては答えてもらえませんでした。今思い返すと、その女性の気持ちに踏み込んでいったような質問をしていたかもしれない、と自分の非礼さを反省しています。バタアン死の行進についてもお聞きしましたが、日本にもアメリカにも今は何の悪い感情も抱いていない、ただそういう事実があっただけだと聞いてとても心が痛みました。
第二次世界大戦中、アメリカの基地がフィリピンにあったため日本がフィリピンを攻撃し、フィリピンの人々は戦争に巻き込まれました。やりきれない怒り憎しみは半世紀以上たった今、フィリピンの人々の心にどのような感情となって残っているのでしょうか。
4月9日、米比軍が日本軍に降伏した日をフィリピンでは毎年死んだ兵士、人々へお祈りをする日として定めています。敵でも味方でもないのに日米戦に巻き込まれたフィリピンの方の思いを、私もまた理解できればと思います。
2012年4月20日金曜日
バタアン
今週の土曜日にNational
Service Training
Program(NSTP)の授業で戦争を経験されたフィリピン人の方にインタビューします。バタアン死の行進という言葉を知らなかったので検索しました。
死の行進
十六人の将校をふくむ七万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちが、バタアンで武器を捨てた。降伏後、彼らは勝利者である敵の残忍な扱いを受けた。飢え、渇き、病い、疲労で極度に衰弱していたにもかかわらず、彼らは、パタアンのマリベレスからパンパンガのサンフエルナンドまでの全行程を行進するよう、強制された。この悪名高き「死の行進」中、フィリピン人約一万人、アメリカ人約千二百人が路上で死亡した。サンフェルナンドで生存者は有蓋貨車につめ込まれて、ターラックのキャパスにあったオドンネル・キャンプにつれてゆかれ、全員が収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族のもとに帰れたのは、ごく少数であった。
(越田稜編著『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』梨の木舎、一九九〇年)
逃れられない歴史ではありますが、目を背けたくなります。日本兵が過去にしてきた残虐な事実を知ることは心が重くもなります。しかし何が起こったのか、なぜ起こったのか、どういう流れで、どういう経緯で、ということを知ることは同時に過去の人々への償いにもなると思うのです。過去は塗り替えがききませんが、未来の私たちが同じ過ちを犯さないよう、自らの歴史について詳しく知りたいと思います。
死の行進
十六人の将校をふくむ七万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちが、バタアンで武器を捨てた。降伏後、彼らは勝利者である敵の残忍な扱いを受けた。飢え、渇き、病い、疲労で極度に衰弱していたにもかかわらず、彼らは、パタアンのマリベレスからパンパンガのサンフエルナンドまでの全行程を行進するよう、強制された。この悪名高き「死の行進」中、フィリピン人約一万人、アメリカ人約千二百人が路上で死亡した。サンフェルナンドで生存者は有蓋貨車につめ込まれて、ターラックのキャパスにあったオドンネル・キャンプにつれてゆかれ、全員が収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族のもとに帰れたのは、ごく少数であった。
(越田稜編著『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』梨の木舎、一九九〇年)
逃れられない歴史ではありますが、目を背けたくなります。日本兵が過去にしてきた残虐な事実を知ることは心が重くもなります。しかし何が起こったのか、なぜ起こったのか、どういう流れで、どういう経緯で、ということを知ることは同時に過去の人々への償いにもなると思うのです。過去は塗り替えがききませんが、未来の私たちが同じ過ちを犯さないよう、自らの歴史について詳しく知りたいと思います。
2012年4月17日火曜日
伝えたいこと
イエメンと韓国からの留学生2人と友達になりました。彼らは正規の学生なので私とは立場が違うのですが、フィリピンでの生活についていろいろ教えてもらっています。
その3人でジプニーに乗ってスーパーマーケットに行く途中「福島はどうなのか、たくさんニュースで見たけど彼らは大丈夫なのか」と聞かれました。日本人として当然語れなければいけない問題ですが自分の勉強不足で、原発事故のせいで今も放射能の被害がある、ということをうまく伝えられませんでした。「チェルノブイリの事故を知っているか」と言うことがせいいっぱいでしたが彼らの返事は「わからない」でした。
恥ずかしながら、東日本大震災について今どうなっているのか私は何も語れないことにその時気付きました。また日本を離れると日本を語るときにこんなに緊張感があるものなのかということも初めて痛感しました。間違ったことを伝えないよう、日本のことをしっかり知ってそれを正しい英語で伝えられるようになりたい!ですが今はまだ英語力がついてきてくれません...
その3人でジプニーに乗ってスーパーマーケットに行く途中「福島はどうなのか、たくさんニュースで見たけど彼らは大丈夫なのか」と聞かれました。日本人として当然語れなければいけない問題ですが自分の勉強不足で、原発事故のせいで今も放射能の被害がある、ということをうまく伝えられませんでした。「チェルノブイリの事故を知っているか」と言うことがせいいっぱいでしたが彼らの返事は「わからない」でした。
恥ずかしながら、東日本大震災について今どうなっているのか私は何も語れないことにその時気付きました。また日本を離れると日本を語るときにこんなに緊張感があるものなのかということも初めて痛感しました。間違ったことを伝えないよう、日本のことをしっかり知ってそれを正しい英語で伝えられるようになりたい!ですが今はまだ英語力がついてきてくれません...
2012年4月16日月曜日
到着
昨日ブラカン大学に到着しました。
トラブルなく出国、入国ができ、空港に迎えに来てくださったRhinoさん夫妻とも迷わずに出会うことができました。大学まで車で約2時間。その間ずっとRhinoさんの奥さんにフィリピンの教育について教えてもらいました。
フィリピンでは高校を卒業したあと、大学で学問的なことを学ぶ学生とvocationという2年間の技術的なことを学ぶ学校に行く学生がいるそうです。大学に進学した学生は、高いレベルの企業から修士課程、博士課程まで求められることがあり、より優秀な人だけが残っていきます。
vocationでは学問的なことは学ばない代わりに裁縫やパソコンスキルについて学び、工場などに勤める人が多いそうです。
フィリピンでは学校で学ぶことがそのまま社会に出てからの仕事につながり、また社会からも学校で学ぶこと、スキルを身に付けることを求めるられるということに、フィリピンでの教育の重要性を感じました。
もっと書きたいところですが、これからオリエンテーションなので行ってきます!
フィリピンでは高校を卒業したあと、大学で学問的なことを学ぶ学生とvocationという2年間の技術的なことを学ぶ学校に行く学生がいるそうです。大学に進学した学生は、高いレベルの企業から修士課程、博士課程まで求められることがあり、より優秀な人だけが残っていきます。
vocationでは学問的なことは学ばない代わりに裁縫やパソコンスキルについて学び、工場などに勤める人が多いそうです。
フィリピンでは学校で学ぶことがそのまま社会に出てからの仕事につながり、また社会からも学校で学ぶこと、スキルを身に付けることを求めるられるということに、フィリピンでの教育の重要性を感じました。
もっと書きたいところですが、これからオリエンテーションなので行ってきます!
2012年4月13日金曜日
完了!
今日、大学で推薦状を受け取り、すべての必要書類が揃いました。
外国語学部の先生方、理工系オフィスの方、教務センターの方、建築学科の先生のご協力のおかげでここまでこれました。
これからスーパーに行ってお土産用の日本のお菓子を買い、
もう準備は完了です。
無事スタートラインに立てたことを感謝し、フィリピンでの大学生活に備えて
ご飯をたくさん食べてエネルギーを蓄えます!
外国語学部の先生方、理工系オフィスの方、教務センターの方、建築学科の先生のご協力のおかげでここまでこれました。
これからスーパーに行ってお土産用の日本のお菓子を買い、
もう準備は完了です。
無事スタートラインに立てたことを感謝し、フィリピンでの大学生活に備えて
ご飯をたくさん食べてエネルギーを蓄えます!
目標
いよいよ出発の日が近づいてきました。あと2日!
21年間生きてきた中で最も大きな挑戦です。
言葉も治安も不安は尽きないけれど、もう後戻りはできないので
自分のやりたいことを実現したいと思います。
まず英語が使えるようになる!
その次にタガログ語でもコミュニケーションできるようになる!
そして英語とタガログ語で建築が語れるようになる!
これを目標に、新しい出会いや経験を楽しんできます。
21年間生きてきた中で最も大きな挑戦です。
言葉も治安も不安は尽きないけれど、もう後戻りはできないので
自分のやりたいことを実現したいと思います。
まず英語が使えるようになる!
その次にタガログ語でもコミュニケーションできるようになる!
そして英語とタガログ語で建築が語れるようになる!
これを目標に、新しい出会いや経験を楽しんできます。
登録:
投稿 (Atom)