今日はボニファシオデーというフィリピンの英雄を称える祝日です。
大学も休みなのでSMショッピングモールに行ってきました。大きな本屋さんがあるので、
タガログ語の辞書を探すためです。そしたら何とユニクロがオープンしていたので見に行ってみました。驚いたのは、ここはフィリピンにも関わらず日本と同じ商品が並べられていたことです。
フリースやセーター、ダウンジャケットが店頭に並べられ、マネキンたちも完全に冬の格好をしています。ヒートテックも売られていました。今現在、日本のユニクロで売られている服をそのまま
フィリピンに持ってきた、という感じなのです。
日本だったらわかります。でも、どう考えてもフィリピンでは必要ないと思います..。
ちなみに今日は31℃でした。この暑さにも関わらずぬくぬくした冬服を見せられるとなんだか
頭が混乱しそうになります。
もちろんTシャツやポロシャツも売られていました。けれど値段は日本と同じでフィリピンだったら200~300ペソで買えるのに対し、ユニクロではポロシャツは1枚990ペソ(2000円)で高いなーという印象です。
でも品質はすごく良いんだと思います。フィリピンで買ったTシャツが洗濯を繰り返すうちにどんどん生地が弱くなっていく一方で、日本から持ってきたユニクロのTシャツは未だに現役です。
日本ではユニクロはお手頃価格のファストファッション代表のような感じですが、こちらでは
生地のしっかりした高級服として売られていておもしろいなーと思いました。
ただ、どうして冬服を売っているのか理由を知りたいです。
繰り返しますが、絶対フィリピンではいらないと思います。
2012年11月30日金曜日
2012年11月29日木曜日
命の終わり
今回はブログにふさわしくない不謹慎な内容かもしれません。
今年の8月にPCP(フィリピンチルドレンプロジェクト)に現地参加させてもらいました。
そのときにアエタ族というフィリピンの先住民の方々が住んでいる村を訪問しました。
ちょうど私たちが訪れたとき、生まれたばかりの赤ちゃんが亡くなったそうで、小屋のような
ところで遺体を燃やしておられるところでした。中に入って見てもいいとおっしゃったのですが、
私は入れませんでした。
お葬式の場に見ず知らずの人間がいきなり来たら、普通は「お願いだから帰ってくれ。来ないでくれ。」とならないのだろうか。いきなり村に来た日本人に遺体の火葬を見てもいい、というのはどういう心情なのだろうか、と私は理解ができず動揺しました。
でも後で、見ておけばよかったと少し後悔しました。
それは好奇心や怖いもの見たさのような感情ではなく、アエタ族の方が「見てもいい」とおっしゃったことに応えるべきだったのかな、と思うのです。亡くなった赤ちゃんへの弔いの意味も込めて、命が終わっていく瞬間に立ち会うべきだったのかな、と。
私は小屋の外で立ち尽くすばかりで、かすかに漏れる煙をただただ見つめていました。
とても不思議な気分でした。
人はいつか死ぬんだということを今、理解していると思いました。
そして今、生かされていることを無性に誰かに感謝したくなりました。
今年の8月にPCP(フィリピンチルドレンプロジェクト)に現地参加させてもらいました。
そのときにアエタ族というフィリピンの先住民の方々が住んでいる村を訪問しました。
ちょうど私たちが訪れたとき、生まれたばかりの赤ちゃんが亡くなったそうで、小屋のような
ところで遺体を燃やしておられるところでした。中に入って見てもいいとおっしゃったのですが、
私は入れませんでした。
お葬式の場に見ず知らずの人間がいきなり来たら、普通は「お願いだから帰ってくれ。来ないでくれ。」とならないのだろうか。いきなり村に来た日本人に遺体の火葬を見てもいい、というのはどういう心情なのだろうか、と私は理解ができず動揺しました。
でも後で、見ておけばよかったと少し後悔しました。
それは好奇心や怖いもの見たさのような感情ではなく、アエタ族の方が「見てもいい」とおっしゃったことに応えるべきだったのかな、と思うのです。亡くなった赤ちゃんへの弔いの意味も込めて、命が終わっていく瞬間に立ち会うべきだったのかな、と。
私は小屋の外で立ち尽くすばかりで、かすかに漏れる煙をただただ見つめていました。
とても不思議な気分でした。
人はいつか死ぬんだということを今、理解していると思いました。
そして今、生かされていることを無性に誰かに感謝したくなりました。
2012年11月28日水曜日
HabitatとJICA
再びHabitatとJICAの事務所に行ってきました。
Habitatはいきなり押しかけたにも関わらず、職員の方がいろいろ質問にも答えてくださいました。いよいよボランティアに参加することが現実になってきてわくわくしています。
JICAの事務所では、受付で「目的は何か、誰に会いに来たのか」を聞かれ、誰もつてがいなかった私は一瞬困ったのですが、以前日本大使館でいただいたJ-Birdのパンフレットを見せ、「これについてどうしてもお話が聞きたいです」と伝えて、中に入れていただきました。
てっきり日本人の職員さんばかりなのかなと思っていましたが、対応してくださったのはフィリピン人の職員の方でした。その方がJ-Birdのプロジェクトについて説明してくださいました。
「どうしてこのプロジェクトを知ったのですか」と聞かれたので「以前、日本大使館でお話を伺いました」と答えると、「じゃあ日本人の職員を呼んできますね。その方があなたもよく理解できるだろうから。」と言ってくださったのですが、残念ながらお忙しいということで日本人の職員さんには
会えず..。次回はアポイントメントとって、直接お話を伺えればと思います。
会えず..。次回はアポイントメントとって、直接お話を伺えればと思います。
お忙しいところいきなりおしかけたにも関わらず、両方ともの事務所でとても親切に対応していただき感謝しています。
書くということ
小学5年生のとき、毎日日記を書くという課題がありました。
書きたいことなんて何も思い浮かばず、私にとっては大の苦手な宿題でした。
それから10年経った今でも、相変わらず文章を書くことは私にとってあまり得意なことでは
ありません。このブログを書くときも書いては消し、書いては消しを繰り返し、公開したあとも
読み返してはヒリヒリするような恥ずかしさを感じることが何度もあります。
でも、5年生のときに日記帳を前にして何も書けずに固まっていたことを思い出すと、
今は書くということを楽しんでいると自分で思うのです。
文章を書くということは表現の一つで、表現とは自分の内部の考えを表に現すことですが、
文章が書けなかったとき、きっと私には自分の考えが何もなかった。
けれど、21年間という大きな時間の蓄積が少しずつ「自分の考え」を形成し、それを表現する
方法が今、少し分かりかけてきたのかな、と思います。
フィリピンに来たばかりの時、アメリカ人の英語の先生に「意見を持ったならそれは誰かに伝えないとだめだよ。せっかくの自分の考えを誰にも伝えないのは実はとても自分勝手なことなんだよ。」と言われたことを思い出しました。
少しずつ表現する方法がわかってきた今、このブログを通してこれからも自分の思いを伝えていきたいです。
書きたいことなんて何も思い浮かばず、私にとっては大の苦手な宿題でした。
それから10年経った今でも、相変わらず文章を書くことは私にとってあまり得意なことでは
ありません。このブログを書くときも書いては消し、書いては消しを繰り返し、公開したあとも
読み返してはヒリヒリするような恥ずかしさを感じることが何度もあります。
でも、5年生のときに日記帳を前にして何も書けずに固まっていたことを思い出すと、
今は書くということを楽しんでいると自分で思うのです。
文章を書くということは表現の一つで、表現とは自分の内部の考えを表に現すことですが、
文章が書けなかったとき、きっと私には自分の考えが何もなかった。
けれど、21年間という大きな時間の蓄積が少しずつ「自分の考え」を形成し、それを表現する
方法が今、少し分かりかけてきたのかな、と思います。
フィリピンに来たばかりの時、アメリカ人の英語の先生に「意見を持ったならそれは誰かに伝えないとだめだよ。せっかくの自分の考えを誰にも伝えないのは実はとても自分勝手なことなんだよ。」と言われたことを思い出しました。
少しずつ表現する方法がわかってきた今、このブログを通してこれからも自分の思いを伝えていきたいです。
2012年11月27日火曜日
ここに来た理由
大学1回生の夏休みに、孤児院でリコーダーを教えるというボランティアで初めてフィリピンに
来ました。そこで見た、あまりにも日本と違う風景に衝撃を受けました。
土の上に板を立てただけの場所で生活をしている人がいる。
路上で物乞いをして生きる子どもたちがいる。
テレビや本でしか知らなかった世界を目の当たりにして、もっと広い世界を知らないといけないと痛感しました。
2回生になり、私は建築学科では落ちこぼれ学生でした。何とかしないといけないと思いつつも何事にも身が入らず、何もできない自分にいらいら焦るばかりでした。
そして、広い世界を知りたい、フィリピンで生活したい、フィリピンで建築の勉強をしたい、という
理由で休学し、フィリピンのブラカン大学に来ました。
でも、本当は落ちこぼれている自分から目を背けたかった。
逃げたかっただけだったんだと思います。
そうして始まったフィリピンでの生活も7か月が過ぎました。
私がここに来て学んだこと。
それは世界は広く、簡単には理解できるものではない、ということです。
フィリピンという一つの国だけでも多様な価値観、様々な人々に出会いました。
ならばこの地球上にはいったいどれほどの価値観、考え方があるのだろう、と世界の途方もない広さを想像してクラクラしそうになります。
でもこの広い世界の中で、人は生きていかないといけない。
老いや死や、その他たくさんのどうにもならないものを受け入れながら、この大きな世界を
構成する一つの命として生きていかなければならないのだと思います。
フィリピンでの生活も残すところあと4か月です。
来ました。そこで見た、あまりにも日本と違う風景に衝撃を受けました。
土の上に板を立てただけの場所で生活をしている人がいる。
路上で物乞いをして生きる子どもたちがいる。
テレビや本でしか知らなかった世界を目の当たりにして、もっと広い世界を知らないといけないと痛感しました。
2回生になり、私は建築学科では落ちこぼれ学生でした。何とかしないといけないと思いつつも何事にも身が入らず、何もできない自分にいらいら焦るばかりでした。
そして、広い世界を知りたい、フィリピンで生活したい、フィリピンで建築の勉強をしたい、という
理由で休学し、フィリピンのブラカン大学に来ました。
でも、本当は落ちこぼれている自分から目を背けたかった。
逃げたかっただけだったんだと思います。
そうして始まったフィリピンでの生活も7か月が過ぎました。
私がここに来て学んだこと。
それは世界は広く、簡単には理解できるものではない、ということです。
フィリピンという一つの国だけでも多様な価値観、様々な人々に出会いました。
ならばこの地球上にはいったいどれほどの価値観、考え方があるのだろう、と世界の途方もない広さを想像してクラクラしそうになります。
でもこの広い世界の中で、人は生きていかないといけない。
老いや死や、その他たくさんのどうにもならないものを受け入れながら、この大きな世界を
構成する一つの命として生きていかなければならないのだと思います。
フィリピンでの生活も残すところあと4か月です。
2012年11月25日日曜日
追記
久保田先生の著作「ライフワークとしての国際ボランティア」の中でハウスオブジョイの烏山逸男さんについて書かれている部分を読んだとき、大学1回生のときに一般教養の授業で烏山さんの講演をお聞きしたことを思い出しました。
その時の講演後のレポートを1年半ぶりに読み返してみました。
「烏山さんの心を満たすもの、それは安定した商社マンとしての自分、高い給料、ではなくフィリピンのハウスオブジョイという養護施設で子どもたちに愛を与え続けることなのだそうです。」
と私は書いていました。
似たようなことを、日本大使館の福永さんのお話を伺ったときも、「名誉や地位のためではなく、人のため、誰かに恩返しをしたい、という思いで働くのはとても心の満足感が大きいのだろうと思います」とブログに書いています。
心を満たすもの。
必要とされたり、役に立ったり、貢献したり、協力したり、そういった人とのつながりは自分を生きようと駆り立てる原動力になるのかもしれません。
「ライフワークとしての国際ボランティア」に出てくる方々はみな社会の大きな枠組みの中で、そういった人とのつながりを自ら生み出そうとされてきて、だからこそその生きる姿勢は私にはとてもエネルギッシュに見えたのだろうと思います。
エネルギーはいるけれど、心の満足感は大きい。そしてその心の満足感が自分の生きる原動力になる。
つながりを生み出せる人間になりたいです。
その時の講演後のレポートを1年半ぶりに読み返してみました。
「烏山さんの心を満たすもの、それは安定した商社マンとしての自分、高い給料、ではなくフィリピンのハウスオブジョイという養護施設で子どもたちに愛を与え続けることなのだそうです。」
と私は書いていました。
似たようなことを、日本大使館の福永さんのお話を伺ったときも、「名誉や地位のためではなく、人のため、誰かに恩返しをしたい、という思いで働くのはとても心の満足感が大きいのだろうと思います」とブログに書いています。
心を満たすもの。
必要とされたり、役に立ったり、貢献したり、協力したり、そういった人とのつながりは自分を生きようと駆り立てる原動力になるのかもしれません。
「ライフワークとしての国際ボランティア」に出てくる方々はみな社会の大きな枠組みの中で、そういった人とのつながりを自ら生み出そうとされてきて、だからこそその生きる姿勢は私にはとてもエネルギッシュに見えたのだろうと思います。
エネルギーはいるけれど、心の満足感は大きい。そしてその心の満足感が自分の生きる原動力になる。
つながりを生み出せる人間になりたいです。
2012年11月24日土曜日
アヤラの街
授業がキャンセルになったのでマニラのアヤラにあるHabitatというNPO団体とJICAの事務所に行ってきました。両方とも以前から、お話を伺いたいので事務所に伺ってもいいか、という内容のメールを何度か送っていたのですが返事が来ず、よく知らない日本人からのいきなりのメールに不審に思われたのかもしれないと思いながらも、返事が来ないなら直接行こうと思って行ってきました。
土曜日なので予想通りオフィスは閉まっていましたが、初めて歩いたアヤラの街は面白かったです。オフィスビルが整然と並び、緑の豊かな公園もあり、なんだか大阪の本町のオフィス街のようでした。いつもの見慣れたフィリピンの風景はそこには無く、ストリートチルドレンも一人もいません。掃除は行き届き、清潔で美しい街です。
もちろんサリサリストアなども無く、トライシクルも走っていません。私は喉が渇いたときはサリサリストアで14円のSparkleという瓶に入ったジュースを買うのが好きなのですが、アヤラにはスターバックスのようなカフェしかありません。「コーヒー1杯に300円も!」と物価の高さにびっくりしながらも、ビジネス街の空気を肌で感じ、フィリピンの新たな一面を垣間見た気がしました。
HabitatとJICAの事務所については行き方を覚えたので、来週の水曜日にもう一度チャレンジしてみようと思います。
「ライフワークとしての国際ボランティア」
久保田賢一先生の著作「ライフワークとしての国際ボランティア」を読みました。
以前、久保田先生に「協力隊に行かれた方ってどうして最終的にみなさん大学教授になるのですか。協力隊を経験された方の本を読んでも大学教授になられた方ばかりなのですが。」とお聞きしたことがあります。すると笑いながら「大学教授になったから自分の体験を本にできるんだよ」とおっしゃっていたのですが、この本には大学教授じゃない方のことについても書かれていて、「ああこういう生き方もあるんだ!」と思えた本です。
以前、日本大使館の福永さんと医師の菊池さんにお話を伺ったときのことをブログを書きました。そこで私は「お二人とも普通の生き方をされていないことに感銘を受けた」というようなことを書いています。
この本に出てこられる方々も久保田先生はもちろんのこと、すごくエネルギッシュで世間の流れに乗らず、どんどん自分の人生を切り開いておられるように見えます。
私自身はあまり外交的な人間ではないことは自覚していますし何事にものろのろグズグズする方だと思います。この本を読んでいても、「自ら行動を起こせる人って本当にすごいなー」とただただ羨ましく思うばかりです。
でも私もペースは遅くても常に自分の次のステップを考えて自分を高めていけるような生き方がしたいと思います。そのためにも今、違う世界をたくさん見て、様々な経験を自分の中に蓄積していきます。
そしていずれこの本に出てくる方々のように人生のミッション、使命をもった生き方ができれば、と思います。
以前、久保田先生に「協力隊に行かれた方ってどうして最終的にみなさん大学教授になるのですか。協力隊を経験された方の本を読んでも大学教授になられた方ばかりなのですが。」とお聞きしたことがあります。すると笑いながら「大学教授になったから自分の体験を本にできるんだよ」とおっしゃっていたのですが、この本には大学教授じゃない方のことについても書かれていて、「ああこういう生き方もあるんだ!」と思えた本です。
以前、日本大使館の福永さんと医師の菊池さんにお話を伺ったときのことをブログを書きました。そこで私は「お二人とも普通の生き方をされていないことに感銘を受けた」というようなことを書いています。
この本に出てこられる方々も久保田先生はもちろんのこと、すごくエネルギッシュで世間の流れに乗らず、どんどん自分の人生を切り開いておられるように見えます。
私自身はあまり外交的な人間ではないことは自覚していますし何事にものろのろグズグズする方だと思います。この本を読んでいても、「自ら行動を起こせる人って本当にすごいなー」とただただ羨ましく思うばかりです。
でも私もペースは遅くても常に自分の次のステップを考えて自分を高めていけるような生き方がしたいと思います。そのためにも今、違う世界をたくさん見て、様々な経験を自分の中に蓄積していきます。
そしていずれこの本に出てくる方々のように人生のミッション、使命をもった生き方ができれば、と思います。
2012年11月23日金曜日
ルームシェア
2学期が始まり2週間が過ぎました。また勉強の日々です。
最近大きく変わったことは、ルームシェアを始めたことです。これまでは1人で部屋を使っていたのですが今はフィリピン人の女の子3人と私の4人で寮の一部屋をシェアして住んでいます。
なぜ今ルームシェアをしようと思い立ったかというと、一人部屋では確かに快適だし時間も自分の好きなように使え、とても自由です。でもその分自分にとことん甘くなるような気がして、シェアをして全くの他人と生活を共にしてみようと思ったわけです。
始めるまでは不安で、きれい好きじゃない人が来たらどうしようなどと悩んだりしたのですが、いざ初めてみると意外と楽しいのです。もっと早く始めればよかったと思ったぐらいです。
4人はお互い初対面同士でしたが、みんなのフィリピン人気質のおかげかすぐに打ち解けることもできました。
もちろん共同生活をしていると1つしかないシャワー、トイレ、机を譲り合って使わなければいけないし、夜もみんなが寝る時間に消灯しなくてはいけません。いろいろ不自由な部分もあります。
けれど朝起きたときに「Good morning!」出かけるときに「Ingat!(take careの意味)」夜寝るときに「Good night!」と声をかけ合える人がいつもいる、というのは日常生活をとても楽しくしてくれます。
まだシェアを初めて2週間ですが、これからの生活にわくわくしています。
最近大きく変わったことは、ルームシェアを始めたことです。これまでは1人で部屋を使っていたのですが今はフィリピン人の女の子3人と私の4人で寮の一部屋をシェアして住んでいます。
なぜ今ルームシェアをしようと思い立ったかというと、一人部屋では確かに快適だし時間も自分の好きなように使え、とても自由です。でもその分自分にとことん甘くなるような気がして、シェアをして全くの他人と生活を共にしてみようと思ったわけです。
始めるまでは不安で、きれい好きじゃない人が来たらどうしようなどと悩んだりしたのですが、いざ初めてみると意外と楽しいのです。もっと早く始めればよかったと思ったぐらいです。
4人はお互い初対面同士でしたが、みんなのフィリピン人気質のおかげかすぐに打ち解けることもできました。
もちろん共同生活をしていると1つしかないシャワー、トイレ、机を譲り合って使わなければいけないし、夜もみんなが寝る時間に消灯しなくてはいけません。いろいろ不自由な部分もあります。
けれど朝起きたときに「Good morning!」出かけるときに「Ingat!(take careの意味)」夜寝るときに「Good night!」と声をかけ合える人がいつもいる、というのは日常生活をとても楽しくしてくれます。
まだシェアを初めて2週間ですが、これからの生活にわくわくしています。
2012年11月6日火曜日
友達
友達がもうすぐ帰国します。
彼女は韓国人で、私がフィリピンに到着した一か月後に到着しました。
もちろん最初から友達になれたわけではありません。私は韓国の人に苦手意識を勝手に持っていましたし、韓国の人もきっと日本人が嫌いだろうと思っていました。けれど異国のフィリピンという土地でともに頑張る戦友のような意識が芽生え、だんだんと仲良くなりました。
彼女とはとにかくたくさん話をしました。英語が母国語ではない者同士でつたない英語ではありますが、なぜか彼女とは話題が尽きませんでした。ファーストフード店で3時間、4時間話し込んだことは何度もあります。
お互い大学生で就職のことや恋愛のこと、また韓国の徴兵制のことや北朝鮮・中国との関係、そして竹島、ドクトのことについても話しました。TPPが日本だけの問題ではないことも彼女から知りました。
私は現在21歳で彼女は22歳。国は違えども同じようなことを考え、同じような悩みを抱えて生きています。就職や結婚のことなど自分の人生のことに悩みながらも、若者として自分の国の
将来を思い心配するのはどこの国の若者も一緒なんじゃないかと思います。
つい最近彼女に言われたことがあります。
「私は日本人が嫌いだった。過去に日本人が韓国にしてきたことを憎んでいるし、当然日本人のことも憎んでいた。でも初めて日本人と出会って友達になって、私は過去の出来事は嫌うけれど日本人のことは嫌うべきではないと思った。」
これはまさしく私も同じで、彼女に出会って韓国の人に対する意識はすっかり変わりました。彼女に出会わなければ私はネットやテレビだけの情報をうのみにし、いつまでも韓国に対してわけのわからない嫌悪感を持ち続けたのでしょう。
でも今は違います。
友達のいる国を簡単に嫌いになれないし情報を疑って見るようになりました。
どこかの国で反日運動があったというニュースを見て、日本人に向けてそれを伝える意味はなんだろう、日本人がそれを見てその国に嫌悪感を持つことによって得をする人がどこかにいるんだろう、それは誰だろう、という目で見るようになりました。
私にとっては大きな変化です。
私がフィリピンに来て得たものはたくさんありますが、彼女との出会いもまた私の財産です。
フィリピンに来た当初はまさか韓国人の友人ができるなんて想像もしていませんでしたから。
また出会えることを信じて、彼女の無事の帰国を祈ります。
彼女は韓国人で、私がフィリピンに到着した一か月後に到着しました。
もちろん最初から友達になれたわけではありません。私は韓国の人に苦手意識を勝手に持っていましたし、韓国の人もきっと日本人が嫌いだろうと思っていました。けれど異国のフィリピンという土地でともに頑張る戦友のような意識が芽生え、だんだんと仲良くなりました。
彼女とはとにかくたくさん話をしました。英語が母国語ではない者同士でつたない英語ではありますが、なぜか彼女とは話題が尽きませんでした。ファーストフード店で3時間、4時間話し込んだことは何度もあります。
お互い大学生で就職のことや恋愛のこと、また韓国の徴兵制のことや北朝鮮・中国との関係、そして竹島、ドクトのことについても話しました。TPPが日本だけの問題ではないことも彼女から知りました。
私は現在21歳で彼女は22歳。国は違えども同じようなことを考え、同じような悩みを抱えて生きています。就職や結婚のことなど自分の人生のことに悩みながらも、若者として自分の国の
将来を思い心配するのはどこの国の若者も一緒なんじゃないかと思います。
つい最近彼女に言われたことがあります。
「私は日本人が嫌いだった。過去に日本人が韓国にしてきたことを憎んでいるし、当然日本人のことも憎んでいた。でも初めて日本人と出会って友達になって、私は過去の出来事は嫌うけれど日本人のことは嫌うべきではないと思った。」
これはまさしく私も同じで、彼女に出会って韓国の人に対する意識はすっかり変わりました。彼女に出会わなければ私はネットやテレビだけの情報をうのみにし、いつまでも韓国に対してわけのわからない嫌悪感を持ち続けたのでしょう。
でも今は違います。
友達のいる国を簡単に嫌いになれないし情報を疑って見るようになりました。
どこかの国で反日運動があったというニュースを見て、日本人に向けてそれを伝える意味はなんだろう、日本人がそれを見てその国に嫌悪感を持つことによって得をする人がどこかにいるんだろう、それは誰だろう、という目で見るようになりました。
私にとっては大きな変化です。
私がフィリピンに来て得たものはたくさんありますが、彼女との出会いもまた私の財産です。
フィリピンに来た当初はまさか韓国人の友人ができるなんて想像もしていませんでしたから。
また出会えることを信じて、彼女の無事の帰国を祈ります。
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