2012年11月29日木曜日

命の終わり

今回はブログにふさわしくない不謹慎な内容かもしれません。


今年の8月にPCP(フィリピンチルドレンプロジェクト)に現地参加させてもらいました。
そのときにアエタ族というフィリピンの先住民の方々が住んでいる村を訪問しました。

ちょうど私たちが訪れたとき、生まれたばかりの赤ちゃんが亡くなったそうで、小屋のような
ところで遺体を燃やしておられるところでした。中に入って見てもいいとおっしゃったのですが、
私は入れませんでした。

お葬式の場に見ず知らずの人間がいきなり来たら、普通は「お願いだから帰ってくれ。来ないでくれ。」とならないのだろうか。いきなり村に来た日本人に遺体の火葬を見てもいい、というのはどういう心情なのだろうか、と私は理解ができず動揺しました。

でも後で、見ておけばよかったと少し後悔しました。
それは好奇心や怖いもの見たさのような感情ではなく、アエタ族の方が「見てもいい」とおっしゃったことに応えるべきだったのかな、と思うのです。亡くなった赤ちゃんへの弔いの意味も込めて、命が終わっていく瞬間に立ち会うべきだったのかな、と。

私は小屋の外で立ち尽くすばかりで、かすかに漏れる煙をただただ見つめていました。
とても不思議な気分でした。

人はいつか死ぬんだということを今、理解していると思いました。
そして今、生かされていることを無性に誰かに感謝したくなりました。

2 件のコメント:

  1. 自分も、アロマダンプサイトって、マニラのスモーキーマウンテンのすぐ近くに新しく作られたところに行ったときに、なくなった子どものお葬式があって、見てやってくれと言ってもらった。
    その子どもも生後すぐになくなってしまった。
    その子どもが生きた証拠、短い命やったけど、その子がいたことを、お葬式は確かめ合う場だったのかもしれない。
    日本だったら、悲しみを分け合う場なのかもしれないけど、極限の状況の中で生きるダンプサイトの人たちにとっては死は日常的なことかもしれない。そういう状況だから、お葬式の意味も変わるのかな。

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    1. 示し合わせたように、私たちが訪れたときちょうど火葬が行われていたこともその子が生きたことの証人になるためだったのかな、なんて思ったりします。
      死んでいる姿を人に見せるお葬式ってすごい場なのだと改めて思いました。けれど生きている人間にとって死を見ることで生きるということがよりわかるのかな、という気がします。

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