2014年6月29日日曜日

センスは使わなければにぶる

今から4年前、大学生になってすぐに始めたブログがある。
趣味のアクセサリー作りと自分で撮った写真が中心の、まあふわふわと内容のないブログだ。
久しぶり覗いてみたら、今でも細々とアクセスがあって驚いた。
「あんた!まだ生きてたんだね!」
と生き別れた娘に再会したような気分だ。

久々に読み返したが、もう恥ずかしくてしょうがない。ちょっとポエティックに書いたりなんかしてて直視できず、思わず薄目にして読んだ。

ただ自分で言うのも恥ずかしいが、一緒に載せている写真が思いのほか綺麗に撮れていた。
そういや昔は常にデジカメを持ちあるいて、1日2,3枚は撮っていたなと思い出した。

当時安物のコンパクトデジカメを使っていたが、バイト代を貯めてちゃんとした一眼レフを買った今の方が毎日持ち歩いているにも関わらず、写真を撮る機会は少ない。いや、撮りたいと思う対象をなかなか見つけられない。

何と言うか、「綺麗なものを発見する力」みたいなものが当時に比べてにぶっているなーと感じた。明らかに4年前の方が、繊細に色んなものを発見する感覚は敏感であったのだ、という事実を痛感した。

そういうセンスは、身長みたいに伸びることはあってもある一定量から下がらないと思ってた。
だが本当は違うのだ。センスもほっとけばどんどん鈍くなっていくのだ。

自画自賛のようで恥ずかしいが、当時の感性をよみがえらせるつもりで、ちょっとうまく撮れてた写真を載せる。




もう雪で遊ばなくなってしまったし、雨上がりの花もまじまじ見つめていない。
綺麗なものを、私は一体どれだけ見落としてきたのだろう。

2014年6月28日土曜日

感想「すべてがFになる」

あらすじ
孤島のハイテク研究所で、少女時代から完全に隔離された生活を送る天才工学博士・真賀田四季。彼女の部屋からウエディング・ドレスをまとい両手両足を切断された死体が現れた。偶然、島を訪れていたN大助教授・犀川創平と女子学生・西之園萌絵が、この不可思議な密室殺人に挑む。

読み終わったあとの爽快感!
これは自分の常識の範囲をぽーんと飛び越える快感だ。

ミステリー小説を読むとき、読み手側は登場人物とともに推理をする。登場人物の言動や行動を見落とさないように読み進めながら、「犯人はこの人ではないか」「トリックはこうではないか」と考える。

だけど、この小説では私の頭で考えられる範囲をはるかに超えた世界が展開し、そのあまりのギャップの大きさにもうページをめくる手がとまらなくなるのだ。

たまにミステリーで「それはさすがに無いやろ」というようなトリックだと、今まで読んだ時間を無駄にしたという気持ちになるが、これは理論的にトリックがどんどん解明されていき読んでいて本当に気持ちよかった。

そして「すべてがFになる」の意味がわかったとき、思わずぎょっとする。これを考える森博嗣の頭の中はどうなっているのだろうか。すごい。傑作。

2014年6月25日水曜日

アルバイトをやめました

先ほど、大学の授業が忙しくて辞めますとお伝えしましたが、本当は別の理由がございますので書かせていただきます。

私は以前、ホテルのレストランでアルバイトをしておりました。その時はかちっとした制服を着てパンプスで歩き回るのがしんどくてしんどくて、次は疲れないお仕事がいいなと思っておりました。

ですので、電話オペレーターのお仕事はパソコンの前に座っているだけでしたので、身体的にはとても楽でした。そして時給はホテルで働いていたときの1.5倍でした。
なんていいアルバイトなんだろう、最初はそう思いました。

けれど、すぐに高い時給の意味を理解いたしました。
電話、すなわち声だけでコミュニケーションをとることの難しさたるや!

普段、対面でコミュニケーションをとるとき、私は、言葉だけでなく声色、表情、身振り手振りからも情報を受け取ります。言葉はキツくても表情が優しかったら、言葉のキツさは薄まります。
言葉、声色、表情などはそれぞれを補ったり、強調したり、重要なコミュニケーションツールだと考えております。

しかしお電話では、相手の言葉と声色しかわかりません。
お客様の言葉にじっと神経を集中させ、丁寧な言葉で誠意ある対応をする。

このお仕事で求められているのはこういうことで、それに対して高い時給が払われているのだと実感いたしました。ただ私にとっては大変ハードルの高いことでございました。

お受けしたお電話の中にはもちろんクレームもありました。誠心誠意対応しているつもりでしたが、心苦しいお言葉を頂戴するときもあり、そういったときはこっそりトイレで泣いておりました。
いえ、全て私の対応が至らなかったせいでございます。

そしていつの間にか、パソコンの前に座ると常に心臓がどきどきと脈打ちました。
電話をとるのが怖くて仕方ありませんでした。

顔の見えないお客様相手に私は勝手に恐怖し、懇切丁寧な対応を心がけているつもりでございました。けれど丁寧すぎる対応はかえって相手の方に不信感を与えてしまうものなんですね。
お客様に対して私がバリアをはっているような、または盾を構えているような印象与えてしまうのだということも学びました。

ちょっとお恥ずかしい話ですが、アルバイトが終われば私はいつも母に泣きながら電話をかけていました。もちろん守秘義務は守っておりましたので、仕事内容などは話しておりませんが、「辛い辞めたい」とひたすら繰り返しておりました。母をストレスのはけ口にして申し訳なかったなと反省しておりますが、そうでもしないと気持ちが落ち着かないほどに私は弱い人間でございます。

夜、たくさんサラリーマンの方たちが歩いていらっしゃる中に混じって、電話をかけながら泣いている私はひどくみっともない姿だったことでしょう。今でも赤面する思いです。

ある日のことでした。アルバイトに行く直前、喉の痛みで急に声が出なくなりました。
その日はお休みをいただきました。

ぽっかり空いた時間は本を読んだり料理を作ったりしました。
この時間は、自分でも驚くほど本当に楽しかったです。

そして次のバイトの日もまだ声は出ず、再びお休みをいただきました。

急に休んでしまったことには本当にご迷惑をおかけしたと思っております。
けれど、この休みの間、自分にとってアルバイトが大きな心理的負担となっていたことに気がつきました。

もう、辞めようと思いました。

辞める旨を伝える電話をかけた時、少し怒られましたね。
契約期間のルールを守らなかったこと、本当に申し訳なく思っております。

そして心に少し罪悪感が残りました。「たった数か月先の契約満了まで我慢できずに辞めるなんて、私は根性ないなあ」と。

ただ、アルバイトが精神的負担となって日々の生活に不調をきたすのも、学生の私にとっては非常に困ることでございます。そう自分に言い聞かせて納得しているつもりでおります。

今は大学の勉強を第一に、節約生活をしながら夏休みの短期バイトなどで収入を得ようと考えております。

短い間でしたが、お世話になった方々に感謝をこめて。

2014年6月20日金曜日

人工島はなんだか怖い。

ゆりかもめに乗って東京お台場に行ってきた。降りたって歩いてみて驚いた。
完璧な街だ、そして完璧すぎて怖い、と。

私はどうもこの人工島が苦手だ。神戸のポートアイランドもそうだけれど、どこまでも清潔で美しい環境というのは、どこか気持ちを落ち着かなくさせる。まるで街という舞台セットのようだ。もしくは、ゲームの世界。

気持ちよい広さの道路に、密集せずに建てられたビル群、そして海水浴ができるようにビーチが作られている。綿密な都市計画に基づいて設計されているのだろうなとわかるのだけれど、そこには路地や空き地や里山はない。どこもかしこも見晴らしがよく、すかっと視線は通り、逆に言えば隠れられる場所がないような気がした。それが、ここに住むのをためらわせているのではないかと思った。

大げさな言い方かもしれないが、そこを歩いている人はエキストラのように街を街らしく見せるために配置されているように見えた。街の完璧さの前に、人の存在感は薄くなるのだろうか。

もう一つの怖さの原因は、無人電車に乗って人工島まで移動することだろう。ゆりかもめやポートライナーに乗ると、「連れて行ってしまわれる」という意識を持たずにはいられない。

ここまで書いた通り、私にとって人工島は怖い場所であり住むとなったら少し躊躇してしまうのだが、実際お台場海浜公園のマンションはびっくりするぐらい価格が高いし、人気のある土地なのだろう。

だが、人工島に対して生理的に恐怖を感じるのはきっと私だけではないはずでは、と思う。

2014年6月15日日曜日

父の日に父の話を

幼い頃から、父をどこか仙人のようだと思っていた。

とにかく穏やかで怒らない。昔、公園で父と自転車の練習をしていた時、私は上手く乗れないといつも怒って泣いていた。機嫌よく練習を始めても、一度転ぶとすぐ泣いて「もう乗らない!」とさけぶ。けれど私がいくらわめこうが泣こうが、父は穏やかな表情を決してくずさなかった。子ども心にそれが何だか申し訳なく感じて、もう父を困らせるようなことをするのはやめよう、と思った。なぜそんなにいつも穏やかでいられるのか不思議で、それはまたある意味父の怖さでもあった。

そんな父は、よく変なものを買ってくる。「なんでこんなの買ったの?」という母と私の問いに、いつも 「これ面白いやろ?」と言うのだ。父にとって、使いやすいとか実用的であることはそれほど重要ではなく、それがデザインされた面白いものであればいいのだった。

宇宙人のようなフォルムのレモン絞り器、鉄板を曲げた座ると冷たい真っ赤な椅子、子どもの頃一度しか乗っているのを見たことがない革張りのサドルの変な形の自転車など、家にはおおよそ実用的ではないものがたくさんある。父の「面白さ」の基準ははっきり言ってよくわからない。そんな父なので、「ブランド」や「本物」という価値にもあまり興味がない。

私が小学生の頃だった。当時、ディズニーアニメの影響でお姫様に憧れていて、クリスマスに「真珠のネックレスをください」とサンタクロースにお願いした。朝、枕元に置いてあったパールのネックレスに大喜びし、「これ本物の真珠かな?」と父に聞いた。

普通子どもの夢を壊さないために、おもちゃのネックレスだとしても「うん、本物だね」とか言うんじゃないかと思うが、そのとき父は「本物やと思ったら、本物になるんや」 と言った。
「どういうこっちゃ?」と幼い頭はもちろん疑問だらけで、その時は意味がわからなかった。

何年かのちにそれは明らかなフェイクパールなのだとわかったが、それを着けたときのわくわくした気持ちには真珠が本物かそうでないかは関係ないのだ、という意味だと父の言葉を解釈した。

「外からの価値よりも、自分が面白いと思う方がより価値がある」

父には、他者からどう見られるかという意識が全然ないのだろうな気付いたとき、何となく仙人っぽく見える理由がわかった気がした。他者の意識がないこと。それはいいことなのか、悪いことなのかよくわからないけれど、すぐ世間の価値に流されてしまう私には、少し羨ましく見える。
 
今でも、何か迷うことがあれば自分が面白いと思う方を選ぼうと心がけているが、やっぱり時々、世間で有名であること、人気があるものに価値があるのだとつい思ってしまう。そしてそういう価値観に比べて勝手に劣等感を持ったり、嫉妬したりしてしまう。私はまだまだ自分の価値観のみで生きられていない。

仙人にはまだまだ近づけない。

2014年6月14日土曜日

緊張しいは治らない

中学生の頃、「人間の一生で心臓が脈打つ回数は決まっているんだって」と友達に言われ、私は驚愕した。緊張しいの私の心臓はきっと、人よりも早くにその動きを終えてしまうのではないかと怯えた。

その後、保健の先生にそんなことは嘘だと笑われほっと一安心したものの、8年たった今でも緊張しいは治っていない。昔から、ピアノのコンクールや部活の試合、バイトの面接、ちょっと人前に出るときでさえ緊張しないときがない。いつも、心臓はどくどく脈打ち、声は上ずり、手は震え、顔は赤くなる。

と、ここまでなら誰でも緊張したときに出る症状だと思うが、私はちょっと度が超えているのではないかと思ったのは高校生の時だった。

高校2年生のとき、フェンシング部員だった私は相変わらず試合前、極度の緊張にさらされていた。そしてある試合中、急に腹痛が止まらなくなった。緊張でお腹が痛くなることはあったが、こんなに痛いのは初めてだ。もちろん試合どころではなく、その時は勝ったのか負けたのかも覚えていない。これは何か異常があるに違いない、と帰ってからすぐに病院に行った。

「食中毒か!?はたまた盲腸か!?」
どきどき不安になりながら診察してもらい、レントゲンも撮ってもらったが、「異常は無いです。」
驚く私は「そんなはず無いんですよ。めっちゃ痛かったんですよ」と訴えた。するとお医者さんは、困ったような顔をして言った。

「きっとお腹の筋肉が緊張していたのでしょう」

「!!!!!!」
身体の力が抜けた。お腹の筋肉!お前もか!

結局、治療法もなく気休めのような胃薬だけもらい、とぼとぼと病院を後にした。

それ以来、しょうがない、緊張しいというのも一つの個性だ、と思い込んでなんとか今まで生きてきた。いつか心臓が強くなって何事にも動じない日がくるのだと夢見た。

が、そんな日はやって来ず、今また大きな緊張にさらされている。心臓は早く脈打ち、何も手につかない。お腹もちょっと痛い。明日さえ乗り切ればまた平穏な毎日が戻ってくるはずなのだけど、とりあえず今は落ち着かない時間を過ごしている。

もう、ほんと、さらりとスマートに平然とした顔で何事もこなせるようになる日は来るのだろうか。ハートが強い人間になりたい。切実に。

2014年6月9日月曜日

近頃感動の感度がにぶい

この頃、本を読んでも、映画を見ても、人と話しても、ちょっとやそっとのことでは心が動かされなくなってしまったのを感じる。ある程度のことは予測できる範囲内のことで、それはとてもつまらなく感じる。

でも日常は本当は面白いものに溢れているはずなのに。ちょっとした面白いものも逃さないでいたいのに。いつでも何に対しても新鮮な驚きと感動を持っていたいのに。

自分の感情の振り幅がどんどん狭くなっていっていないか!どうしたらいいんや!

2014年6月8日日曜日

祖母の話に続き、弟の話を

現在むさ苦しい大学生である弟にも、野球に打ち込む青春のきらめきのような時代があった。とりわけ中学時代のことは、彼にとっては辛く苦しい経験であろうとも、私にはそれはきらめきにしか見えないのだった。

弟は小学校から野球を始め、少年野球では下手なりにエースをつとめていた。その後、中学でも野球を一生懸命やりたいと中学の野球部ではなく、地元のクラブチームに入った。そこは、県内屈指の野球少年たちが、弟のように自発的ではなくスカウトされて入団してきているクラブチームだった。

小学校ではエースだった弟は学年で一番足が速かったが、クラブチームにはもっと速い子がごろごろいた。身長も体格もずっと大きい子たちばかりで、弟はあっという間に1番下の選手になった。レギュラーになれない。背番号ももらえない。もちろん試合にも出られない。

結局一度も試合に出ることはないまま、しかし休むことなく3年間練習に通い、彼はクラブチームを引退した。そして高校生になると、野球をぱったりと辞めた。

「この景色を見ると苦しくなる」
ある日大阪に行ったとき、弟はそう母にこぼしたそうだ。そこはかつてクラブチームの遠征で何度も通った場所だった。同級生や後輩が試合に出るのを、ベンチから見ているだけだった。帰って来ても弟のユニフォームは洗濯したばかりのようにきれいなままだった。

弟は、自分の心情を吐露することがほとんどない。いつもひょうひょうとしている。その彼が、思わず口に出してしまうほど、クラブチームでの経験は辛く苦しいものだったのだろう。

ここまで書いたところで、弟の経験を私はあくまで想像するだけで、本当の気持ちはわからないし何か言える筋合いもない。だけど弟よ。そうやって自分を打ち砕かれる経験ができたっていうことはとってもラッキーだよ、とだけ言いたい。

人には言えない苦しみや悔しさを抱えながら、どうか強くやさしい男になるのだ!と姉は心の中で励ます。

2014年6月7日土曜日

おばあちゃんの話

「スカイツリーのぼってきたんやけど、曇ってよく見えへんかったわ」

祖母からバスツアーで東京と静岡に行ってきたという話を聞いた。レインボーブリッジをわたってフジテレビに行き、スカイツリーにのぼり、河口湖で泊まり、三保の松原から富士山を見てきたそうだ。

今年の8月で85歳になる祖母のなんと元気なことか。

その祖母は、ガラケーから機種変更したスマートフォンで電話をかけ、「今度はいつ帰ってきますか」とLINEで私にメッセージも送ってくる。ばあちゃん恐るべし。

この前、家に帰ると缶に入ったレモンスカッシュが箱買いされていた。その数20本ほどだ。「あんたのお母さんにはこんなん買わんといてって言われるわ」と笑う。祖母と私、顔を見合わせて秘密を共有するようにふふふと笑い、コップについでレモンスカッシュを分け合った。

私よりもフットワークが軽くどこにでも出かけていき、孫が帰ってくるときには好きなものを用意してくれ、スマートフォンを使いこなす祖母には本当にかなわないなあと思う。

スカイツリーに関してはまだ私は見てすらいないのに。先を越されてしまい悲しい。

2014年6月6日金曜日

切羽詰まったら泣くというクセをいい加減直したい

どうしようもないほど切羽詰まっている。
全ては私が計画的に物事を進めてこなかったせいで、現在「うわああああ」となっている。

手がつけられていない課題を前に、涙を拭きながら焦っている。泣いている、といっても全然大ごとではなく、小学生の時も夏休みの終わりはいつも泣きながら宿題を終わらせていたので、もうこれは課題に取りかかる儀式のようなものだ。

ただ、23歳にもなってこんなことじゃ恥ずかしい。
一人でめそめそと泣いているのは状態として美しくない。

自分の怠惰さは小学生のときから変わっていないという事実をなんとかせにゃいかん。
いい加減。

2014年6月5日木曜日

ここ最近せかせかしているのはブログをさぼっているから

毎日ブログを書きたいと思いながら、どうもこの頃時間に余裕が無い。毎日ばっちり8時間寝ているし、死ぬほど忙しいというわけでは全然ないのだけれど。

きっと、時間がないからブログが書けないのではなく、ブログを書かないから時間がないのだ。
やはり寝る前に心を落ち着け、パソコンに向かい、言葉にならないもやもやをきちんと文章にして、頭の中を整理する必要があるのだと思う。文章を書くというのは、そういう頭の浄化作用がある。

しょうもない話でも、書くまでもないと思うことでも、これからは記録しておこう。それは後から読み返したときに恥ずかしくなるかもしれないけど、そういうしょうもないことしか書けない自分、というのを知るのも大切ではないか。

格好良く言うと、己の恥を知りて一歩目とかいうやつ?

2014年6月1日日曜日

二十歳の手記

実家に帰ったら小さなメモ帳が出てきた。大学2回生、二十歳のときに使っていたものだった。今から3年前だ。基本的に過去の自分が書いたものはどれも恥ずかしいのだが、「おおハタチの私はこんなこと考えてたのか」とわかってちょっと面白かった。

その頃、青春18きっぷの旅にはまっていて一人でふらふらとよく出かけていた。メモ帳には愛媛県下灘駅に行ったときのことが書かれていた。恥をしのんでここに記す。

2012年9月5日
5時55分起床。急いで着替えて6時に宿を出て松山駅までダッシュ。6時5分の電車に乗る。
7時下灘駅到着。無人駅だが一人ではなかった。愛知のあおなみ線という鉄道の運転士をされているというおにいさんが観光に来ていて少し話す。下灘駅から海を見下ろす風景はずっと見ていても全然飽きない。心が洗われる。次は朝日ではなく夕日を見に来たい。
人生のうちであと何回涙を流せるのだろう。悲しいことでじゃなくて、美しい風景とか心を震わされることで。そしてこれから先何回そのような場面に出会えるのだろう。「ああ私は全てを知ってしまった」と思わない人生を送りたい。さみどりの稲田に心が震える柔軟さをいつまでも忘れずに生きたい。

当時の私は大げさに言えば生きることに切羽詰っていて、大学に行く意味は何なのか、就職する必要はあるのか、生きる意味はあるのか、なぜ死ぬのはいけないのか、答えの出ない問いに煩わされていた。まわりに「そんなに気にしなくてもいいよ。思いつめすぎだよ」 と言われると「この人は何もわかっていない。誰も何もわかっていない」と、ひそかに周囲を愚かだと決め付けた。それは二十歳という年代特有の未熟さであり傲慢さであったし、今思い出しても私はとても嫌なやつだった。しかしそれはまた精神的な通過儀礼であったのではないかとも思う。

荒い筆跡で書かれたメモにはそのときの葛藤みたいなものがにじみ出ているような気がして、当時の自分の青さに苦笑した。

大丈夫だよ、全てを知ってしまう人生なんてあり得ないし、3年後の君は今でもふきのとうが苦くて泣き、ゴキブリが出ては泣き、人に怒られてはトイレでこっそり泣くような人間だよ、と言いたい。

あれ、涙の種類がちょっと違うか..。