幼い頃から、父をどこか仙人のようだと思っていた。
とにかく穏やかで怒らない。昔、公園で父と自転車の練習をしていた時、私は上手く乗れないといつも怒って泣いていた。機嫌よく練習を始めても、一度転ぶとすぐ泣いて「もう乗らない!」とさけぶ。けれど私がいくらわめこうが泣こうが、父は穏やかな表情を決してくずさなかった。子ども心にそれが何だか申し訳なく感じて、もう父を困らせるようなことをするのはやめよう、と思った。なぜそんなにいつも穏やかでいられるのか不思議で、それはまたある意味父の怖さでもあった。
そんな父は、よく変なものを買ってくる。「なんでこんなの買ったの?」という母と私の問いに、いつも 「これ面白いやろ?」と言うのだ。父にとって、使いやすいとか実用的であることはそれほど重要ではなく、それがデザインされた面白いものであればいいのだった。
宇宙人のようなフォルムのレモン絞り器、鉄板を曲げた座ると冷たい真っ赤な椅子、子どもの頃一度しか乗っているのを見たことがない革張りのサドルの変な形の自転車など、家にはおおよそ実用的ではないものがたくさんある。父の「面白さ」の基準ははっきり言ってよくわからない。そんな父なので、「ブランド」や「本物」という価値にもあまり興味がない。
私が小学生の頃だった。当時、ディズニーアニメの影響でお姫様に憧れていて、クリスマスに「真珠のネックレスをください」とサンタクロースにお願いした。朝、枕元に置いてあったパールのネックレスに大喜びし、「これ本物の真珠かな?」と父に聞いた。
普通子どもの夢を壊さないために、おもちゃのネックレスだとしても「うん、本物だね」とか言うんじゃないかと思うが、そのとき父は「本物やと思ったら、本物になるんや」
と言った。
「どういうこっちゃ?」と幼い頭はもちろん疑問だらけで、その時は意味がわからなかった。
何年かのちにそれは明らかなフェイクパールなのだとわかったが、それを着けたときのわくわくした気持ちには真珠が本物かそうでないかは関係ないのだ、という意味だと父の言葉を解釈した。
「外からの価値よりも、自分が面白いと思う方がより価値がある」
父には、他者からどう見られるかという意識が全然ないのだろうな気付いたとき、何となく仙人っぽく見える理由がわかった気がした。他者の意識がないこと。それはいいことなのか、悪いことなのかよくわからないけれど、すぐ世間の価値に流されてしまう私には、少し羨ましく見える。
今でも、何か迷うことがあれば自分が面白いと思う方を選ぼうと心がけているが、やっぱり時々、世間で有名であること、人気があるものに価値があるのだとつい思ってしまう。そしてそういう価値観に比べて勝手に劣等感を持ったり、嫉妬したりしてしまう。私はまだまだ自分の価値観のみで生きられていない。
仙人にはまだまだ近づけない。
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