2015年12月8日火曜日

美味しいお肉は好きですか


今から3年前、フィリピンに留学中にミンダナオ島へ行った。日本の学生数人がゼミ合宿でミンダナオ島にある孤児院に数週間滞在するというので、現地参加させてもらったのだ。

日本人の館長さんが運営する孤児院では、30人は超えるであろう子どもたちが歓迎のダンスを見せてくれた。

その日のお昼、「今夜はごちそうだから市場に行ってくるよ」と子どもたちと館長の方が言う。
数時間後、現れたのは紐につながれて歩く一匹の豚と、足首をつかまれバタバタ暴れる10羽のにわとりだった。

「じゃあ始めるよ」

子どもたちが豚のまわりに集まり、私も含めた学生たちはおずおずと輪の後ろに加わる。

「誰かやりたい人―?」
私たちに尋ねる館長さんの言葉に思わずぎょっとして、お互いに目を合わせた。しばらくの沈黙の後、一人の男子学生が前に出た。

館長さんが殺し方を教え、男子学生は豚の首に刃渡り30センチほどの包丁を突き刺した。その瞬間、豚は雄たけびをあげた。「キィィィー」という鳴き声。車の急ブレーキを思い出した。

包丁を抜くと真っ赤な血がとろとろとろ、と流れた。ほかほかと温かいだろうなと思わせる血だった。

子どもたちが「キエーー」と笑いながら豚の鳴き声を真似する。そうか、彼らにとっては当たり前の日常なのだ、とふと思った。

次に、皆でにわとりを殺した。細い首に包丁をあてる。再び「グアァァー」と断末魔の雄たけびが響いた。

また、子どもたちは「グァー」「グァー」と言い合って笑う。私も真似して「グァー」と言って笑った。心の中は殺気立って仕方なかったが、私は大笑いした。私は何にも気にしてない、というように笑った。そうでもしないと心が耐えられなかった。

やがて命が途絶え、くたっとしたにわとりの羽をむしっていく。見慣れた鶏肉の姿になっていく。
豚は口から肛門まで鉄の棒を突き刺し、丸焼きになった。

その日の夜、豚の丸焼きと、フライドチキンという美味しい美味しいごちそうを食べた。さっきまで暴れまわっていた生き物とは思えなかった。


いま、一人暮らしをする私は、一週間に一度スーパーへ行く。肉の中で一番安い鶏むね肉のパックをかごにいれ、安売りされていれば薄切りの豚肉も買う。

ピンク色のつやつやしたお肉。
鶏むね肉の塊を包丁で切る。むにゅっと柔らかく、少し抵抗する感触。思わず自分の首をすくめる。薄っぺらい豚肉をフライパンで焼く。あの丸々とした豚と薄っぺらい肉が結びつかなくて何だか混乱する。

料理になった肉をひとくちひとくち噛みしめながら、美味しいお肉でお腹を満たす幸福を感じる。頭の片隅では、命が途絶える雄たけびを思い出す。

2015年10月21日水曜日

仮面の使い分け

「お姉さん、これからどこ行くのー?」

電車を待っていると、50代ほどの男性に話かけられた。
ぷんと漂うお酒の匂い。話しかけてきた人を含めた男性3人組だった。

スーツ姿の彼らは、出張だったのだろう。これから愛知県まで新幹線で帰るのだと言った。
50代ほどの男性1人、30代ほどの男性1人、20代ほどの男性1人。部長、中堅、新人といったところだろうか。

話しかける女性は誰でも良かったのだろう。たまたま私が彼らの前に立っていただけのことだ。いやな絡まれ方をしてしまったと思った。すぐにその場を立ち去ればよかったのだが、タイミングよくやって来た電車に彼らと一緒に乗り込む形になった。

「大学生?」
「彼氏いるの?」
「今、何の帰り?」

質問にうやむやに答えながら、30代の中堅がスマホを取り出し、ビデオを撮影しているのが目に入った。きっと酔っぱらって女の子に絡む上司の姿を、次の飲み会なんかで見せて笑いのネタにするのかもしれない。

「部長、この前こんなことしてましたよー!笑」
「えー酔ってて全然覚えてないなあ。笑」

他の社員は言う。

「部長、やらかしましたねー!笑」
「おい、やめろよー!笑」

結局私はその場を逃げずに、彼らが降りるまで会話に応じた。
ビデオに対しては笑顔も見せた。

想像だけど、彼らは大きな案件を終えて、打ち上げをしたのだろう。
酔いがまわった状態で帰る途中、前に女を見つけた。

部長が、ちょっとはめを外したところを見せようと声をかけた。
中堅は、たしなめながらもその様子を面白がってビデオに撮った。
新人は、部長を持ち上げながらおおげさに笑ったりリアクションした。

私は、3人のコミュニケーションを成立させるためだけの存在だった。

3人は、それぞれの役割を、それぞれが果たしていた。綺麗な上下関係、見事なフォーメーションというか、役割分担ぶりに、私の役割は彼らの役割分担を壊さないことだ、と思った。

部長には、もしかしたら私と同じぐらいの年齢の娘がいるのかもしれない。でも娘の前では、名前も知らない女子大生に絡む姿は見せないだろう。中堅にも、妻や恋人、家族が待っているかもしれない。だけど家に帰って、部長のナンパをビデオに撮ったことは、きっと話さない。年が近いであろう新人は、私と同い年の恋人を持つのかもしれない。彼の恋人が50代酔っ払いに絡まれたら、彼はどう思うだろう。

家に帰ると、みんないいお父さん、いい夫、いい彼氏、いい息子であるのだろう。もしかしたら、本来のキャラクターとは全く違うのに、会社という縛りの中で、また別の役割を求められているのかもしれない。

いつもは真面目だけど、一仕事終えてちょっとはめを外す部長。
部長をたしなめながらも、いつも見せない部長の姿を面白がる中堅。
部長を持ち上げ、おおげさにリアクションをとる新人。

彼らの降り際に、最後に降りた新人がこちらを見て、小さく「すみません」と苦笑いした。
よかった。私は彼らの役割分担を邪魔しなかった、と思った。

彼らが降りた後、会社という組織で生きていく術をまざまざと見せつけられた気がして、なんだか打ちのめされた。

本来のキャラクターではない役割を自分が演じて、苦しくなる人とならない人がいるのだなと思った。そして私は、苦しむ側だ。

例えば、自分が一番年下の飲み会なんかで、下世話な話題になった時に自分も場にふさわしい振る舞いをしなければと思う。

そうして、興味のない、自分が全く知りたいと思ってもいないことを質問したりして、「お!聞くねえ!」とか「攻めるねえ!」と一瞬場が盛り上がると、ほっと安心している自分がいる。
よかった。空気を壊さなかった、と。

でもそのあと、無性に苦しくなる。次の日、何もする気が起きなくて、数日ほど鉛を腹に抱えてるような気分の沈みを感じる。自分の持つ人としての品のようなものを損なった気がして、身をすり減らした気持ちになる。

もちろん、飲み会での振る舞いなんて他の人にはすぐに忘れられてしまうだろう。何事もなかったかのように、また普段通りの生活に戻るのだ。だけど私は、その時の自分の振る舞いがずっとしつこく頭に残る。まだ私は上手に、別のキャラクターの仮面を付け替えられない。

冒頭のナンパの話に戻る。

もし私が男性で新人の立場だったら、部長に調子よく付き合った翌日、きっと鉛を抱えて寝込んでしまうだろうなと思った。そんなキャラクターが、自分には無いからだ。でも、彼はきっと寝込まない。次の日も平然とした顔で、部長も、中堅も、新人も仕事をするのだろう。

私も、色んな人格をくるくる使い分けても、苦しくならない自分でいたいのに。

彼らを思い出して、仮面の付け替えが上手く出来ることが、会社という組織の中で行きていくために必要な振る舞いに思えて仕方なかった。彼らの役割分担は、見事だった。私を介してコミュニケーションをとられたことには腹が立ってしょうがなかったけど。

いずれ私も、うまく仮面が付け替えられるようになるのだろうか。それとも苦しくならない仮面があるのなら、私は欲しい。それは、鈍感力と呼ぶのかもしれないけれど。

2015年10月15日木曜日

夜な夜なアクセサリー




洋服を衣替えしたので、アクセサリーも秋冬用に新しく作った。マフラーやセーターにつけるブローチと、伸びてきた髪を結ぶヘアゴム、秋っぽい色のピアス。


この間、少し大きなステージで発表する機会があった。スーツに近い服を着て、なんとなくふざけて見えたら嫌だなあと思ったのでアクセサリーは何もつけなかった。

同じ会場に、デザイナーの方がいた。50代ぐらいだろうか。黒の変形したワンピースにショートブーツ、長い黒髪を後ろに垂らして黒いターバンをつけていた。そして耳には銀色の大きなフープピアス。その人の肌の色と、服の黒、ピアスの銀色のバランスが美しくて、圧倒的に格好良かった。

自分の発表を終えて、やっぱり小さなピアスでもつければよかったと後悔した。

女性が綺麗に装ってさらにきらっとアクセサリーを付けていると、「私はこの場を盛り上げ、華やかにしようと思っています」という意思表明に見える気がした。そういった礼儀を示すものとして、そして自分の人となりを表現するものとして、アクセサリーは服よりもパワーを持つと思う。だって本来は全く必要じゃないものを、あえて身に着けているのだから。

毎日きちんと服を着て、きらきらを身に着けよう。
私はちゃんと生活を楽しんでいます、と表明するために。

2015年10月8日木曜日

無駄にストイック

毎日、泳ぎまくっている。
大学を19時50分に出て、1時間300円の市民プールまで自転車をとばす。20時ちょうどにプールに着き、ちょうど1000メートル泳ぎ終わると、家に帰る。

3日前からは早朝のランニングも始めた。スポーツジャージをパジャマにして眠り、6時に起きると5分後には外へ出る。ゆっくり30分近所を走って、家に帰る。

1週間前からは、1日3食、食べるのをやめた。朝ごはんと15時頃と2食のみ。夜になるとお腹が減るが、泳ぐと空腹が紛れることがわかった。

座禅も始めたし、なんだか修行僧のようにストイックな生活を送っている。身体を酷使しまくっている。

理由は明らかで、やるべき目の前の課題と向き合いたくないからだ。ブログを書くこともまた、逃避の一種なのかもしれない。

逃げ出したいというエネルギーを、今は身体を酷使することにばかり変換している。
行きつく先はいったい何なんだろう。

いつもはとても怠惰な人間なのに。ほんとうに僧にでもなりそうな勢いである。

2015年10月7日水曜日

座禅生活

人生で初めて座禅を経験したのは、中学1年生の時だった。

入学して2度目の遠足。行き先は京都。
男女混合5人の班になり、和菓子づくりや華道、茶道といったいかにも京都っぽいプログラムの中から、第一希望、第二希望、第三希望を自由に選べるというものだった。だが私にとってはどれも退屈そうで、あまり乗り気ではなかった。

中心的な男の子と女の子が和菓子作りでしょ、と言うとすぐに班の総意となった。私は書記係となって、提出用紙に和菓子作りと書く。第二希望は茶道がいいとなったんだか、、まあとにかく文化体験よりもお菓子が食べたいという中学生らしい選択になったと思う。

体験プログラムの一覧表に、私はひときわ気になるものを見つけた。
お寺での座禅体験だ。

どうしても興味が惹かれて、でも提案するのもなんだか恥ずかしい。すっかり和菓子づくりをするもんだ、という雰囲気になっていた班の人たちに、今さら何も言い出せなかった。

行き先を話し合う空気はとっくに無くなって、それぞれがおしゃべりに興じていた。
第三希望の空欄には誰も気を止めていない。私はそこにこっそり、座禅と書いた。

後日、班ごとの行き先が発表された。はたして私たちの班は...座禅体験だった。
決まったものは今更変えられず、なんだか申し訳ないなと思いながらも心の中では小躍りしたい気分だった。

迎えた遠足当日、一学年200人ぐらいいるが、第三希望でさえ座禅を書いた班は一組もいないらしかった。小雨降りしきる中、5人でお寺に向かう。誰も一言も話さない状況に、申し訳なさがつのった。

お寺に着くと広い畳のお堂に通され、お坊さんが座禅の組み方について説明を始めた。
そして、ひっそりと始まった。

私はすぐに後悔した。途方もなく退屈なのだ。
動き出したくて仕方ない。体が窮屈。背中がかゆいような気がする。髪の毛が首にかかって気持ち悪い。それでも30分間耐えなければならない。時計も無い。地獄かと思った。

しばらくすると、視線の先に一匹の蜘蛛が現れた。一瞬、緊張が走る。心の中で、来ないでと頼む。蜘蛛はじーっと動かなかった。やがてどこかへ行った。怖がらせないでくれてありがとうと、つぶやいた。

そしてだんだん、私はぼーっとすることに集中し始める。頭の中が溶けていくような感覚があった。体がふわふわと揺れている気がした。雨は降り続けている。少し肌寒い風に、秋を感じた。

世界には今、5人の中学生と一人のお坊さんしかいなかった。毎日過ごしている教室は、どこか遠い場所にあった。

目はどこを見ているのか、手はどう置いているのか、感覚がなくなっていく。自分は何をしているのか、ここはどこなのか、わたしという存在が薄れていく気がした。それはとても不思議な、幸福な感覚だった。死ぬなら、こうやって静かに世界から消えていきたいと思った。

座禅は、唐突に終わった。お寺を出ると、私は身体の中にふわふわとした気持ちよさが残っているのを感じた。

これが、人生で初めての座禅体験である。よほど強烈な感覚であったらしく、今でも思い出すとあの時の多幸感が身体の中に流れてきそうだ。

そして最近、私はまた一人で座禅をしている。毎朝、5分だけ。

外の音がうるさいほど耳に入る。鳥の鳴き方の種類が一つではないことがわかる。自分の着ている衣服の重みを感じる。

ほんの思いつきで座禅を始めたが、ほんとはどこかで、中学1年生の座禅体験をもう一度味わいたいと思っている。あの気持ちよさはなんだったんだろう。記憶の中の感覚は、もやがかかったように曖昧で、実体がない。

それでも、見えない幻を追いかけて、今日も私は目を閉じる。

2015年10月3日土曜日

名前の言霊

「君の名前の漢字、あんまり見ないけど、どういう意味なの?」

昔、バイト先の社員さんにそう尋ねられた。
かつて親に教えてもらったように、「人のために香りをふりまく、という意味です。」と答えた。
50代半ばほどの社員さんは、「すごくボランティア精神あふれる名前だね」と笑った。

ボランティア精神て。なんだよそれ。

私には、憧れている人たちがいる。「名は体を表す」を体現している人だ。
時々名前と人となりがぴったり一致している!という場面に出会ったとき、私はとても興奮する。

通っていたバレエ教室で圧倒的に上手だった先輩が、舞さんという名前だと知った時、もう私は何もかなわないと思った。かつてドラムを習っていた先生の息子は、鼓太郎くんといった。
藤川球児なんてプロ野球選手になって成功してすごい、フェンシングの選手にでもなってたらどうするのだろうと思う。

その人の職業や趣味との一致以外にも、例えば、「健太くん」は心身ともに健康でがっしりした体型をもつであろうし、「育美ちゃん」はすこやかな美人に違いない。「瞳ちゃん」は、透き通った白目とくりくりとした黒目を持っていて、きっと眼鏡もいらないほど視力がいいだろう。

というのは勝手な想像だけど、私は名と体が一致しているように見える人が羨ましくて、出来ることなら私もそう思われたかった。

「すごくボランティア精神あふれる名前だね」

そう言われたとき、私の名が体を表すためには、他人のために自分を捧げ続けなければならないのか、と思った。
他人の幸福に捧げられる運命である私の人生...。
やだ!もっと主体的に生きたい!

というのは大げさだけど、名と体が一致するには程遠いなあ、とそのとき思った。

そういえば、高校生のとき交換留学で我が家に滞在した女の子は、ローレンという名前だった。その名前にはどんな意味があるの、と聞くと、自分の叔母さんがローレンだからだ、と言われた。「両親の願い、みたいなのはないの?」と聞くと、彼女は「そんなの知らない。」と言った。

こういう人になってほしい、という願いを込めて名前はつけられるものだ、と思っていたから、意味をこめない文化もあるのだと、驚いた。

結局、名前に恥じないように今、生きられているのかは、もうよくわからない。

私にはボランティア精神が宿っているのかもしれないし、はたまた偽善の塊なのかもしれない。
名前には何の意味も無いだろうし、いや実は言霊のように、名霊なんてものに自分の生き様を決定されているのかもしれない。

何か意味を見出して、自分をこういう人なのだ、思うのもいいし、いやそもそも名前など他人と区別する呼び方でしかない、と思うのでもいい。

私は、意味を見出すのが好きなだけ。
「人のために香りをふりまく」女の子は、今日も他人の幸福のために生きるのだと、自分の宿命にうっとり酔うのだ。


2015年9月30日水曜日

隠しているものはなに?

24年の人生で一度だけ、妊娠検査薬を買ったことがある。

その時、私は4歳だった。休日だったが父は仕事でおらず、母と二人きりの昼さがり。
母は私に1枚のメモ用紙を握らせて、そこに書かれたものを買いに行くために私はひとり歩いて薬局へ向かった。

よくお豆腐屋やスーパーにお使いに行っていたので、頼まれたものを一人で買いに行くことに何の抵抗もなかった。ただ一つ、私に紙を握らせた母が、何だかもじもじと恥ずかしそうにしていたことに、違和感を感じながら。

薬局に着くと、母に言われた通り、握っていた紙を若い男性の薬剤師に見せた。
その瞬間のぎょっとした顔を、私はおそらくずっと忘れないだろう。母の違和感を思い出し、私は薬剤師を見詰めた。

「お母さんに頼まれたの?」「はい」という短い会話のあと、直方体の箱を袋に入れて渡され、私は母から預かっていたお金を払った。家へ帰って母に渡すと、ほっと安心したような顔をしていた。

「ゆうかちゃん、弟か妹ができるかもしれへんよ」
母が嬉しそうにそう言ってきたのは、私が一人でおままごと遊びに夢中になっていた夜だったか。

この時の記憶はここまでしかない。

ずいぶん経って、4歳のお使いを唐突に思い出したのは、小学6年生ぐらいだったと思う。おそらく少女マンガか雑誌から、妊娠検査薬という存在を初めて知った。それは細長く、直方体の箱に入って薬局に売られていると知った瞬間、突然記憶が生々しく甦った。

違和感を感じた母の様子、薬剤師の顔、「ゆうかちゃん、弟か妹ができるかもしれへんよ」という母の言葉。

その頃の私はもう、授業だとか友達だとかから、人が営んでいる隠された世界のことを知り始めていた。そして、そのことに対して、私はいつも嫌悪感を抱いていた。

猛烈に、母を腹立たしいと思った。4歳だからって何もわからないって思ってたよね、と6年生の私は当時のことを責めてみたい衝動にかられた。

意地悪な気持ちを腹に抱えたまま、結局、私は母を問い詰めるようなことはしなかった。

そして24歳の現在、生命や性の視点を持った今でも、急に、ときどきふっと小学6年生の意地悪な気持ちが甦る瞬間が訪れる。

山田詠美の「晩年の子ども」の解説に、こんな一文がある。

「この世は、顕在化している部分と、見えない隠状している部分との、複合でなりたっている。そして子どもの頃にうまく隠退出来た人は、その隠されている部分の豊かさに気づくのだ。」
中沢新一の「リアルということ」

隠状されている部分の豊かさ、なんて私はまだちっとも知らないと思う。それでも、私にも、ひとりでこっそり隠したい、うっとりするような世界がある。

時々、私は隠されている部分を人に聞いてみることがある。何も知らない天然のふりをして。その時私の中には、意地悪な小学6年生の私がいるような気がする。

隠状されている部分、それは例えば性的な視点の質問に、もちろん答えてもらえないこともあるけれど、私は別に何かを知りたいわけではない。

ただ、誰もが持つ顕在化してる部分と隠状してる部分を、行ったりきたりする時の困ったような表情を、じっと見ていたいのだと思う。

誰かの隠された世界に、私は入っていけない。その寂しさが、少し楽しかったりする。

4歳のお使いの記憶。そこに母の、「母」っぽくない人間らしさを感じて、時々思い出しては、一人でふふふと笑う。

2015年8月1日土曜日

おとなの世界にふれた瞬間

今日のような暑い日に、いつも思い出すことがある。

当時小学4年生だった私は、長い長い夏休みに毎日暇を持て余していた。ある時、母がそんな私のために公民館での料理教室に申し込み、一人で参加することになった。

公民館には、20人ほどの小学生と、料理の先生と、ボランティアのお母さんたち、そして子どもの親が何人かいた。けれど一人で参加した私に話し相手はおらず、キャッキャッとはしゃぐ小学生たちを横目に、ひとり黙々と手を洗い、エプロンをつけた。

メニューは秋を先取りしてなのか、豚汁とさつま芋ご飯だった。うだるような暑さの日に、熱々の豚汁を食べると思うとげんなりした。

いよいよ調理を始める段階になり、私の班に、一人のボランティアの母親がやって来た。包丁を使う女の子の隣に立ち、にんじんの切り方を教え始めた。

その女性は、長い髪をクリップでまとめ上げ、首元がひどくあいた薄い茶色のTシャツを着ていた。女性が子どもの目線の高さまで背をかがめると、下着と胸元が丸見えになった。私は目が離せなくて、子どもながらに見てはいけないものを見ていると思った。一方で、この人はわざと見せている、とも思った。

その女性の前には、包丁でにんじんを切る少女の父親が椅子に座って様子を見ていた。父親の視線の先が、自分の娘ではなく、女性の胸元であることは明らかだった。

私は無言で、二人の大人を見つめていた。

女性は、その父親の視線にきづかないふりをしているように見えた。そしてゆっくり顔をあげた。一瞬の間があって、女性は、その父親にむかってにっこりと笑いかけた。

その時の女性の笑った横顔に、薄暗い湿っぽさを感じて思わずぞっとしたことを、今でも鮮明に思い出す。子どもの料理教室の明るい喧騒からそこだけ切り離されたかのようで、私はとてつもなく居心地の悪さを感じた。

扇情的、なんて言葉をその時の私は知る由もないが、その女性のふるまいに性的な匂いを感じて、それは私が混ざることのできない女と男の世界なのだと思った。見たくもないものを見せられたような気がして、無性に腹立たしくて、泣き出したかった。

毎年、夏の湿った空気の匂いをかぐと、この時の記憶がよみがえる。大人が隠す世界を垣間見た、小学4年生の夏を。

2015年7月30日木曜日

新橋でのナンパ

数か月前、東京で就職面接を受けた帰り、私は新橋駅で人と待ち合わせをしていた。その日は土砂降りの雨で、湿気と汗でブラウスが肌に張り付き、気持ちが悪くて仕方なかった。

改札前で、待ち合わせ相手に連絡をしようとスマホでLINEをひらいたとき、どこからかすっと男性が近寄ってきた。40代後半ぐらいだろうか。スーツを着て、サラリーマンのように見えた。

「LINE、交換しませんか」

男性は、ぼそっとつぶやくように話しかけてきた。私はとっさにスマホをかばんにしまい、「すみません」と頭をさげてその場を立ち去ろうとした。

20メートルほど移動して、もうここなら大丈夫だと再びスマホを取り出したとき、またその男性が近づいて来て、言った。

「食事でもどうですか」

後をついてこられていたことに私はぞっとした。無表情でじっと目をそらさない男性に、恐怖しか感じなかった。

大げさではなく、その時私は怖くてしばらく動けなかった。「この人はずっとついてくるつもりだろうか、断れば暴力をふるわれたりしないだろうか、力ずくで連れて行くつもりではないか」と最悪な状況ばかりが頭に浮かんだ。

はっと我に返り、早足で人ごみに紛れるように遠くへ遠くへ逃げると、もうその人はいなくなっていた。そのあと、私は無性に悲しかった。私ひとりが怖い思いをして、なんだかばかみたいじゃないか、と。

待ち合わせの相手は、私が好きな男の人だった。公共の場でべたべたするのは恥ずかしいので手をつないだりはほとんどしたくないが、その時は、彼を見つけるとすぐに手をつかんだ。

改札を通る時に再び、私に話しかけてきた男性を見かけた。別の女性ターゲットを探すように、ふらふらと歩いていた。その人が、好きな男の人と手をつなぐ私の姿を見てくれればいいのに、と思った。

あの人は、私が一緒に食事に行くことを了承すると思ったのだろうか。どこかに連れていけるとでも思ったのだろうか。

あとから人に聞くと、どうやら新橋駅前は夕方から夜にかけてナンパスポットと化すらしい。そういう出会い方を否定するわけではない。けれど、あの時恐怖しか与えなかった男性に、今は哀れみしか感じていない。

2015年7月24日金曜日

どうしてバカにしないということを異常に恐れるのか

前に書いたコミュニケーションをとる上で気を付けることって一体何なの、教えてを読み返して、やっぱりこんなの変だよなと思った。私が人をバカにする言い方を絶対しないでおこうと気を付けることは、すなわち、人を絶対に怒らせたくない、ということだ。  ではなぜ私は人を怒らせることを異常に恐がるのだろうか。

中国人の男の子が私の態度にすごく怒った時、私はとても怖かった。親に怒られる、先生に怒られる、という上下関係があるものではなく、対等な怒りだった。そのとき私はただ縮こまることしかできず、堂々と反論する強さを持たなかった。

小心者という気性は今も変わらない。もしまた誰かを怒らせたとき、私はきっと縮こまることしかできないだろう。だから人に対して、「丁寧な言い方をするから、どうか私に怒らないでね。」と無言のメッセージを発しているのだ。

そうしてしまう弱さは、やはり自分のアイデンティティがふらふらしているからではないか、と思う。自分に確固とした自信が持てない。私は親のすねかじり大学生で、自分がひどく子どもっぽい存在に思えてしょうがなくなる瞬間がよくある。一方で、同い年で働いている友人たちは社会から役割を与えられ、精神的にも経済的にも自立している(ように見える)。

卑屈になんかなりたくないのに。

今日は、まわりがみんな偉く見える日。花でも買って、ひとりで楽しもう。

2015年7月7日火曜日

[マンガ感想]深夜食堂 生きることは食べること

この漫画には夢がある。仲間とのきらきらした友情も、素敵な恋愛も出てこないけれど、生きることが嫌になるようなことがあっても、ここへ行けばとても庶民的な、でも身も心もいっぱいに満たされそうなごはんが食べられるだろう、という夢が。そしてまた、生きるのも悪くないかと思えるに違いない。

様々な悩みを持つ人がこの深夜食堂を訪れる。不倫をする脚本家や、内定を取り消された女子大生、暴力をふるう売れない芸人と付き合う女性。

でも食べるという幸せは誰にでも訪れる。食べて、満たされて、そしてまた悩みを抱えたまま帰っていく。

この漫画を読んだとき、私は、前に松任谷由美のコンサートで聞いたMCの内容を思い出した。ユーミンはこう言った。


映画は、ハッピーエンドだったり予定調和で終わったりすることが多いけど、実際の人生は、使われなかったカットや、NGシーンを抱えながら、生きていかなくてはならない。人はそれをどうすることもできない。でも、そんなリアルな物語を、これからも歌っていきたい

NGシーンばかりだと嘆きたくなる日々を、この漫画はそっと癒してくれる気がする。

ちなみに、この漫画で見たシーチキン丼を最近しょっちゅう作っている。美味しいだけでなく、とっても安く出来るので貧乏学生にもぴったりのメニューだ。

2015年7月3日金曜日

自分を肯定できないとき

人生で一番忙しい、というのは大げさだけど、あれもこれもと思うことが思うように進められず自分の不甲斐なさを痛感している。

ドタキャンしてしまったり、遅刻したり、自分に任されたことを中途半端にしてしまったり、よくないことはこうも連鎖するのか。

すっかり自信を無くした私は、最後の手段で母にすがるが、「これだから学生は甘い」と一蹴された。

今に限らないけれど、「自分はほんとだめだなあ」と嗚咽して泣きたくなる瞬間は3か月に一度ぐらいやって来て、そんな時、いつも私はその気分に飲み込まれて動けなくなってしまう。

だから動かない。できるだけ動作をゆっくりゆっくりにする。涙がでるときには、一人になって泣く。下手にyoutubeで笑える動画なんかを見たりしない。そんなもの、閉じた後、余計に悲しくなるだけだからだ。

明日は早起きして、シーツとタオルケットを洗濯する。今年一度も履いていなかったピンク色の靴を履いて学校に行く。

沼のような気分から少しでも抜け出したい。

2015年6月27日土曜日

話すことは快楽

先日、留学経験のある大学生として自分の体験談をインタビューされる機会があった。生い立ちや小学生時代、思春期、大学時代のことについてたくさん質問され、答えた。

ありがとうございます、もう終わりにしましょう、と言われたとき2時間が経っていた。驚いた。私はまだほんの30分ほどしか経っていないような気分だったからだ。

帰り道、わたしはほくほくとした気持ちよさに包まれていた。自分語りをすることってこんなに気持ちいいのか、自分の話を聞いてもらうってこんなに嬉しいのか、とちょっとびっくりしてしまった。それから2日間ぐらいまだふわふわとした気分に包まれており、この気持ちよさは少し危険だと思った。もっともっと、と求めてしまいそうな、ドラッグのような効果があるとさえ思った。

少し話は変わるが、前に東京を訪れた時、渋谷駅前でマック赤坂を見かけた。ポスターでよく見ていた人が、スマイル党ののぼりとともに、ピカピカ光る猫耳型のカチューシャをつけていた。その姿を見て、私は、マック赤坂が国政選挙や地方選挙に出馬し続ける理由が少しわかる気がした。

本当に勝手な想像だけど、この人は、大金を払って出馬して、自分の話をみんなに聞いてもらう、という酔狂な遊びをしているように思えて仕方がなかった。

可哀想な人だとは思わない。だけど、この人もまた、自分語りの気持ちよさに囚われてしまっているのだろうか、という考えが時々ふと心の中に湧く。そして自分はどうか、囚われていないか、と問うてみたくなるのだ。

2015年6月18日木曜日

女子高生への羨望

電車に乗っていると、頭に花かんむりをのせた女子高生のグループを見かけた。お団子ヘアーに白やピンクの花がたっぷりのった冠をかぶって、驚くほど短い制服のスカートをひらつかせていた。

花を盛った彼女たちは、はしゃいでいて、生意気そうで、傍若無人で、世界は自分たちのものだと思っていそうだった。

なんだよ。妖精のコスプレかよ。だいたい花かんむりなんて恥ずかしい。そんな姿、きっとあと5年もしたら赤面するような過去になるのに。

そう私は心の中で、ひとり言をつぶやいた。

その日の私は就職活動の帰りだった。緊張から解き放たれ心身ともにぐったりしていた。

動きにくいリクルートスーツに身を包んだ私には、本当は、彼女たちの軽やかさが羨ましくてたまらなかった。傍若無人さが、眩しいと思った。

彼女たちの姿を横目に見ながら私は、タイトスカートを脱ぎ捨てて、頭に花かんむりをのせて、ミニスカートをひらひらさせて街を闊歩する自分を想像した。それはとても愉快で、格好悪くて、人生がちょっと楽しくなりそうだと思った。

2015年6月10日水曜日

可哀想な恋愛

昨日、紺色やグレーのワンピースを全部クローゼットから取り出し、リサイクルショップへ持っていった。私に少しも似合っていなかったその服たちを、やっと手放そうと思った。

その人と会うとき、私はいつもワンピースを着ていた。男性とデートをするときはとりあえずワンピースを着ておけばいいのだ、という迷信じみた都市伝説を信じて。

不思議なことに、その人から「こういう格好をして」と言われたわけではないのに、私は地味なワンピースこそが、その人と会う時の正解の服なのだ、と思い込んで少しも疑わなかった。おとなしく従順そうな服を着て後ろをついていけば、それでいいのだ。本気でそう思っていた。

どちらからともなく音信不通になり、半年以上たったある日、私はその人のツイッターのアカウントを偶然発見した。それは本当に偶然としかいいようがなく、突然現れた見覚えのあるニックネームに、とてもうろたえた。見てはいけないと思いながらも、震える指はどんどん過去のツイートを遡っていった。

そこには、私が知らなかった相手の日常生活が並んでいた。たくさんのつぶやきの中に、私の存在は1ミリも無かった。悲しみと同時になんだか少し、ほっとしてしまった。なんだ、あなたも私を見ていなかったじゃない、と思った。

もうずっと時間がたった今、お互いに恋心も愛情も思いやりもなかったという事実と、そのことの残酷さに、時々ふと涙が出そうになってしまう。その時の私は、きっと、相手にきちんと向き合っておらず、ただ「付き合っている人がいる私」「一人で寂しくない私」になりたかっただけだった。そして、相手もまた同じ気持ちだったのではないか、と思う。

ワンピースを着てその人の後ろをくっついていれば、今の自分とは違う別の自分になれるのかもしれない。そう思って思考停止していたあの時。それはとてつもなく楽で、だけどいつも虚しかった。そして、これから出会う相手には、精一杯の愛情を注ぎたいと思った。

2015年3月11日水曜日

4年前の3月11日の思い出

その日は近畿大学で建築合宿というのに参加していて、ちょうど中間発表のプレゼンテーションの最中だった。グループで順番待ちをしているとふらふらーと地面が揺れ、これはひどい目眩だなと思った。目眩はしばらく治まらなくて何だかおかしいと思った時、まわりのざわめきでこれが地震だとわかった。思わず隣の女の子と手を取り合ったことを覚えている。

ちょうど震災の四日前、大学は春休み中だったので私は一人で青春18きっぷを使って宮城を旅行していた。自分が通り過ぎた駅が、訪れた場所が大きく変わった姿で連日テレビに映っていた。ニュース番組の中で、京都から仙台に遊びに来ていた大学生3人が亡くなったと報道されたとき、私も彼らだったかもしれないと思った。


半年後、大学の夏休み中にインターネットで見つけた清掃のボランティアに申し込んで参加した。「被災者だったかもしれない自分」が頭から離れなかったからだ。


ちょうど3年前、東北のボランティアのことを私はブログにこう書いていた。

40人ほどのボランティアで泥かきをしていたとき、津波に流されて何もない街を制服姿の高校生たちが自転車でさーっと下校していくのが見えました。そのとき私は彼らをすごくタフだな、と思ったのです。こんな大変な目に遭っているのに...と。
でもあとから思うと、彼らにとっては当たり前のことなのだ、とはっとしました。たとえ街の姿は変わってしまっても、多くの家が失われてしまっても、彼らの日常は失われていない。
そう気づいたとき、私は自分の中の上から目線な態度に愕然としました。東北が大変だ!困っているにちがいない!何とかしに行かなきゃ!
とても恥ずかしいのですが、ボランティアをする前、岩手県にいく道中、私は自分の正義感にちょっとうっとりすらしていたのです。役に立ってやるぞー!と。 
帰りのバスの中で大げさではなくぞっとしたことを昨日のように思い出す。
正義感という言葉に、何か自分が偉くなったような気がしてしまう。けれど、正義の名のもとに大事なものを見落としまうかもしれない。自分の動機、本当にそれは相手のことを思っているか、かっこいい言葉、耳触りのいい言葉で自分の本当の気持ちを見えなくしていないか。
なんだか良く出来た人間のぴかぴかの正論みたいでむかつく書き方だけれど、3年前に私が書いていたものは、なんだか今の自分に言われている言葉のように感じた。

フィリピンの人に対して、私はうっとりしていないだろうか、と。正義感は適切な分量を持ってなければいけないが、こうやって自分を問うことも必要なのだと今日3月11日に思い出した。

2015年2月21日土曜日

24歳になりました。サザエさんと同い年です。

24歳。ああなんて大人な数字だろう、とかつて思った。

今から6年前、私は18歳で浪人生だった。ちょうどその年の9月、祝日と土日がうまく重なりシルバーウィークと呼ばれる5連休があった。もちろん浪人生には関係のないことだ。その時のニュースで、次に5連休となるのは6年後の2015年です、と言っていた。

6年後。その時私は24歳か。きっと大学を卒業して会社員になって清潔なオフィスでバリバリ働いているに違いない。化粧も覚えておしゃれになって、髪の毛を染めてパーマなんかあてちゃったりして、もちろん結婚を考えて付き合っている相手もいるのだろう。そして5連休にはその人とヨーロッパなんかに旅行しているのかも、早く24歳にならないかしら。などと垢抜けない予備校生は夢想した。

はたして24歳になった私はと言うと、未だに大学生をしている。9月の5連休も卒業制作だ何だかんだでおそらく休んでいる場合じゃないだろう。結婚?遠すぎて見えねえ!

そもそも、19歳でフィリピンに初めて来た時点で、あるいは興奮冷めやらぬまま21歳のときに留学もしてしまった時点で、その後インターンでも戻ってきた時点で、そしてやっと復学したと思ったら今また毎日スラムを歩いている時点で、18歳の時の可愛らしい人生計画はどこかへ行ってしまったのだ。

それでも、ありがたいことに元気に生きている。スラムの環境は決して良いとは言えないが、ここでは子どもたちが裸で外を走り回り、手作りのハンモックで朝から眠る男性もいれば、女性たちは集まっておしゃべりしている。日本では隣人が誰かもわからないアパートに一人で住む私には、ここはとても温かく幸せな場所に見えるときがある。

もちろん楽しい思いばかりではない。居住状況を調査するのが目的であるため、住民に電気や水道についての質問をしていると、毎日の生活の大変さをとうとうと語り出す方もいる。
「あなたが将来建築家になって成功したら、ここに戻ってきて私たちを助けてください」
顔にしわが深く刻まれたおばあさんにぎゅっと手を握られそう言われたとき、思わず身体が硬直した。「ええ、もちろん」と答えながらも、「ごめんなさい、私にはそんな力はないのです」と心の中で深く詫びた。

そんなことを経験するひたすら地道な毎日。清潔なオフィスも華やかな海外旅行も無縁の生活ではあるが、日々生きていくことの愛おしさと哀しさに出会い、哀しみに囚われず強く生きていく人に出会う。そして自分もまた、悲喜こもごもあるちっぽけな生活を営む一人であると知る。

18歳の私は、24歳のこの現実を全く予想しなかった。それはとても可笑しく愉快だ。次に5連休となるのは11年後の2026年。35歳の私もまた、私を大きく裏切っていて欲しいと願う。

2015年2月16日月曜日

暑さに負けそうにもなったけど私は元気です

フィリピン生活の4分の1が過ぎた。早い。早すぎる。本当は毎日ブログを書く、というのを目標にしていたが劇的なことなどほとんど起こらず、ついつい書くのをさぼってしまった。

今、毎日集落をまわってアンケート調査をしているがやはり当然のことながら警戒されるし、答えてもらえないことの方が多い。住宅の実測なんかもさせてもらえない。わかっていたけど心は折れるし焦りばかりが募る。

認めたくないことだが、自分はどこかでフィリピンの人を怖いと思う気持ちを持っていて(主に治安の面で)、そういうのはやはり相手にも伝わっているのだと思う。自分が相手に対して閉じているのに、どうやって相手に心を開いてもらえるというのだろうか。

外を歩けば太陽が照りつけ汗が噴き出る。部屋に帰れば水しか出ないシャワーに震える。キラキラとした海外生活をfacebookにアップしたり、確かな成果を得られたと実感できるような日は未だにやって来ない。そんな日は永遠にやって来ないようにも思える。

けれど、さっきテレビでタガログ語バージョンのドラゴンボールが放送されているのを見て、日本語の時よりも何だかテンションが高く聞こえるそれに思わず笑ってしまった自分は、きっとまだ大丈夫だと思った。それは半分、言い聞かせるようにだけれど。

2015年1月31日土曜日

出発前夜の戯言

明日の今頃、私はちゃんとブラカン大学の寮にいるのだろうか。

恥ずかしながら、実はさっき泣きながら母に電話をした。
「調査もうまく出来るか不安やしなのに人様のお金を使わせてもらうし明日の朝4時に起きられるかも心配やし荷造りは出来てないしちょっと眠気を感じて仮眠したら2時間も寝ていたしコンビニでエクレアをいっぱい買ってしまったしそれ全部食べてしまったし」

「もう、出来ることなら行きたくない」と。

母はこう言った。
「無謀なことにチャレンジしてしまうのは私の娘だから仕方ない。私は同じ大学を3回も受験して3回ともだめだった。CAを目指したけど新卒でも中途採用でもだめだった。夢破れてばかりだったけど今まあまあ幸せに生きてる。ちょっと種類は違うけど、私もあなたも無謀なことに挑戦してしまう星のもとに生まれたのだからこればっかりはもうしょうがない。生きて帰ってくれさえすればいい。」

かあさん、何でそんな星に産んでくれたんや...

2か月はきっと長いようであっという間なのだろう。小心者の無謀なチャレンジは果たしていかに...!

2015年1月3日土曜日

大人のための性的ミュージアム鬼怒川秘宝殿感想と新年の抱負

明けましておめでとうございます。


さて、新年最初のブログは昨年末に行った鬼怒川秘宝殿の感想を書こうと思う。ここ鬼怒川秘宝殿が2014年12月31日に閉館すると知り、歴史の終わりを見届けるべく大阪から栃木まで行ってきたのだった。人生初の秘宝館。入口の看板からさっそく妖しげだった。もちろん18歳以上でないと入れない。


入館すると出迎えてくれる美人な鬼怒川お竜。

奥に進むと、石で作られた男性器が大きなものから小さなものまで所狭しと展示されていた。どれも日本全国にある子孫繁栄や農作物の豊穣を祈るためのものだそうで、日本の性神信仰の歴史の深さを感じさせた。あと江戸時代に描かれた春画もたくさんあった。


ここでは行為を思わせる半裸の男女の舞が和太鼓のドコドコした音に合わせて後ろのスクリーンに映っていた。きっとこれも神様に捧げる子孫繁栄などを祈った舞なのだと思う。


そしてろう人形のゾーンへ。こちらは「道鏡艶夢暮壱図」というタイトル。生涯を閉じるまで煩悩に苦しんだお坊さん道鏡が表現されている。お経を上げる後ろにあるのは道鏡の欲望の世界だそう。

「道鏡は座る膝が三つ出来。」と説明文に書かれていた通り、お経を上げていると突然「ビョイーン」と音がして三つめの膝が起き上がる、という仕掛けだった。

また「板東武者出征前夜」というタイトルの戦に出る前夜の武士とその妻の場面や、「百花繚乱太閤幻蕾」というタイトルの豊臣秀吉が女性4人を相手にしている場面など等身大のろう人形で迫力たっぷりに作られていた。どれも動きがあったり音声があったりして、上のお坊さん同様、笑かしてるのか真剣なのかよくわからず、コントのようだった。


他にも西洋の性神を展示したスペースや、


「ラブサイエンス」という男女の身体の作りや妊娠のメカニズムなどを保健の教科書のように展示したスペースもあった。


そして最後は、古いポルノ映画が上映されていた。人生初のポルノ映画と周囲にはたくさんの女性客。こんな時一体どんな表情をしていればいいのだろうと非常にドギマギしたが、映画の中でアクロバティックなポーズが披露されるたびに「おおー!」とか「ええー!」と声を上げる女性客に囲まれていると何だかサーカスを見ているような気分になった。

秘宝館を出たあと、私は山崎ナオコーラの小説に出てくる一文を思い出した。

もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやってほしい。

人生初めての秘宝館。次から次へと展示される男女二人組が織りなすそれは、無防備で一生懸命で滑稽だと思った。そんな格好わるい営みの末にひとは誕生するのだから人間とはなんて愛おしい存在なのだろうと、私は何だか泣き出したいような気持ちになった。

どんなに格好よくスマートに生きていても、どうしようもなく誰かを好きにならずにはいられなかったり、欲求に振り回されたりする瞬間はきっと誰にでも訪れるのだろう。みんな本能の部分ではどうしようもない格好わるさを抱えている、という大人だけが知る事実をこの秘宝館はこっそり教えてくれる気がした。

哲学者パスカルは「パンセ」の中でこう言った。
「人間の弱さはそれを知っている人たちより、それを知らない人たちにおいてずっとよく現れている。」
この「弱さ」は「格好わるさ」にも言い換えられるのではないかと思う。性的なことに限らず、自分のどうしようもない格好悪さを自覚して引き受けられることはきっと格好いいのだ。

2015年はたくさん恥をかいて、格好わるさの限りを経験して、かっこいい大人に一歩ずつ近づいていきたい。