2014年4月29日火曜日

ものを作れない人間

小学生の頃、書道を習っていた。
硬筆は得意だった。お手本を見て、忠実にその文字の形を真似ればいいのだから。

毛筆は苦手だった。線の勢いだとか、かすれ、にじみ。それにはお手本が無い。正解もない。のびのびした文字、味のある文字。そんなのちっとも理解できなかった。毎週通ってもずっと昇級できず、筆を持つのがいやでいやで仕方なかった。

先生にどこが良くないのか助言される度に落ち込んだ。助言を守ろうとすればするほど、緊張し、筆を持つ手は震え、線は弱々しくなった。書けない自分に悲しくなり、よく教室のトイレにこもって泣いた。

そのうち、教室に行って筆を持つだけで条件反射のように涙が出るようになった。目の前の半紙が水滴で濡れた。すずりに入ったたっぷりの墨は、黒々として飲み込まれていきそうな気分になった。

全身の細胞が拒否している、と思った。もう私は何も書けない。
ちょうど小学校を卒業する時期だったので中学進学を理由に書道をやめた。

今、またその当時と同じような状況にいる。パソコンを開くたび、みっともなくめそめそと泣いている。あの頃のようにうやむやに辞めることも出来ない。

私の悪いところは、すぐ全てを否定してしまうところだ。1つできないことがあると、私はこんなことも出来ない、もう何もできないという思考回路を辿ってしまう。

作れない。私には何も作れない。

泣いても何も解決されず、パソコンの画面は滲んでよく見えない。ただ空虚に、私の顔をぼんやりと照らすだけだ。

2014年4月27日日曜日

あなたがどうやって作られてきたのか

男女関係なく、なんて素敵な人なんだと思ったときその人の小さい時のことについて質問攻めにしたくなる衝動に駆られる。

「どうやって育てられたの」
「小さい時にはどんな絵本読んでもらったの」
「何をして遊んでいたの」
「何をして怒られたことがあるの」
「大好きだったキャラクターは」
「好きな乗り物は」
「外で遊ぶのが好きだった、それとも部屋の中」
「1人、それともみんなで」

その人の性格が、人格がどのように形成されたのか知りたくなる。そして図々しい質問じゃないだろうか、と不安になって質問は永遠に口から出てこない。

そのかわり、一人で想像する。その人の高校生の時、中学生の時、どんどん遡っていく。その時出会っていたら友達になっていただろうか。いや、きっと陰から羨ましげに眺めていたに違いない、と思う。

2014年4月26日土曜日

結局自分が経験してきたことしかアウトプットできない

久しぶりに弟に会ったら私のTシャツを着ていてぎょっとした。「返してよ」と言うと「あんたもやろ」と言われた。そう、その時私も弟のパーカーを着ていたのだ。

弟は、これは姉バカでも何でもなく、服のセンスがいいなあといつも不思議だった。音楽のセンスもいい。ピアノがかっこいい曲教えて、などと聞いて弟からおすすめされた曲はだいたい気に入る。

だけど気づいてしまった。弟が特別センスがいいわけじゃなかったのだ。

小さい時から、同じ色に囲まれ、同じ音楽を聴かされ、同じ旅行先に連れて行かれ、当然のことながら同じようなものが好きになったというだけのことだったのだ。育つ環境が同じだとここまで感覚が似るのかとややぞっとする。それほど幼い時の環境の影響力は大きい。

最近、自分の好きなものが自分の育ってきた環境に非常に影響されていると強く思う。色彩や造形など、「ひらめいた!」と思ってもそれはかつて経験していたものだったりする。

産まれた時から育まれて続けてきた自分の感覚を変えたいとは思わない。だけど、たまにはそれをポーンと飛び越えるような発想をしたいと願う。そしていつまでたっても、そんな瞬間は訪れない。

ひたすら綺麗なものを見て、経験して、自分の感覚を養いつづけないといけないのか、と途方に暮れるのだ。

2014年4月25日金曜日

勧誘されやすい人間の悲しみ

懐かしい友達に久しぶりに会おうと言われた。

見た目は全然変わっていなかったが、社会人2年目になる彼女はどこか大人びて見えた。営業の仕事の話を聞き、私は大学のことや留学していた時の話をした。にこにこしながら「うんうん」と聞いてくれていたけど、バリバリ働く彼女に対して相応しい話題を提供できなくて悪いなとちょっと思った。

2時間ほど話し、おもむろに彼女は自分の会社で扱う商品の説明を始めた。「あれ」と思う。心の中に違和感が広がる。要するにその商品を買わないか、という営業だったのだ。
「ごめん、貧乏学生だからそんな余裕なくって」と言った。その後、彼女からLINEのメッセージが届くたび気が重くなる。もう、会いたくないなと思った。

私はダマされやすそうな顔をしているのか、よく何かの勧誘をされる。新興宗教に関しては大学に入ってから6回、今でも人通りの多いところを一人で歩いていると声をかけられる。なんでだろうね、と母に聞いたら彼女もまた昔はそうだったようで、これはもう完全なる遺伝だ。

話しかけてくる人たちは皆一様に、にこやかで親しみやすそうだ。もちろんいきなり勧誘してきたりしない。道を聞かれたり、美味しいアイスクリーム屋さんはどこかと聞かれ、何も知らない私はそれに全力で答えたいと思う。

けれど話すうちに、「あれ、どうしてこの人は私の個人的なことを聞きたがるのだろう」「初対面の人間の連絡先を知りたがるのだろう」と徐々に心に疑いが生じ始める。そして「こんなイベントやってるんですよ」だとか「こんな勉強会あるんですよ」と見せられたチラシやノートに、幸せ、自己、神などの言葉が並んでいるのを見て確信する。「ああ、宗教の勧誘だったのか」と。

その後いつもどっと身体が疲れる。そして少し悲しくなる。道に迷ってなんかいなかったんだ。美味しいアイスクリーム屋さんなんか探してなかったんだ。彼らにとって私は勧誘しやすそうな駒でしかなかったんだ、と思う。

冒頭の営業の彼女にとってもまた、私は「顧客1」でしかなかった。もちろん宗教の勧誘の人と営業の彼女を一緒にするのはちょっと乱暴な気がするし、商売は商品を買ってもらわなければ成り立たない。

自営業を営んでいた祖父に昔、言われた言葉がある。「どこでお客さんになってくれるかわからないのだから、周りの人を大事にしなさい。」
そうやって人脈を作り戦後の大変な状況の中、一馬力で商売してきた祖父を私はとても尊敬する。

だから彼女が自分の人脈を使って知り合いである私に営業活動をするのはわかる。だけど心が重くなったのは、あたかもそんなふうじゃない、商売のためじゃないという様子で近づいて来られたことだった。それは新興宗教の勧誘の人が最初、道を聞いて来たり美味しいアイスクリーム屋さんはどこですか、と聞いてくることとよく似ていると思った。

勧誘してきてもいい。商品を売ってきてもいい。だけど、困っているふりをしないで、友達のフリをしないでと思う。

だって、勘違いしてしまうじゃないか。

2014年4月23日水曜日

柔らかい春の陽気の中ずっと眠り続けていたい

びっしりと道を埋め尽くしていた桜の花びらは一体どこに行ってしまったのか。花の季節は終わり、緑の葉っぱたちは太陽の光を浴びてきらきらと光る。

「ここ最近頭がぼんやりしてずっと眠いんよ」と人に言うと、「春眠暁を覚えず、だね」と言われた。そうか、昔からみんなこの時期は眠いんだ。

春はいい季節だ、と思う。勝手に、頭がぼんやりさせられていく。

将来のこと、未来の自分を考えると不安で眠れなくなることがしょっちゅうある。わけもわからず泣きたくなったりする。自分の中から発生する感情を私はコントロールすることが出来ない。

だけど、春は、季節という外的要因によって無理やり自分のバイオリズムがコントロールされる。暖かな気温、風、気圧それらに身体が飲み込まれて、頭がぼんやりとしていくなか、自分の中から生まれた不安の泡はだんだん小さくなっていく。

日本に四季があってよかった。特に、春はとってもいい。
もちろん、フィリピンのあっけらかんとした常夏も大好きなのだけど。

2014年4月22日火曜日

恋愛中の私はそれ以外の私と上手く共存できない

好きな人と手をつないで街を歩けない。
友達に好きな人を紹介できない。
まして親になんてもってのほか。

私は、自分が恋愛をしている姿を人に見られることを極端に恥ずかしいと思う。いや、それは恥ずかしさともまた違う、複雑な感情を引き起こす。この居心地の悪さ、むずがゆさは一体何なんだと思ったときに、「私の恋愛する人格は他の人格とうまく共存できないのだ」と気づいた。

みんながみんなそうかは分からないけど 、人は自分の中にいくつもの人格をもっていて、それを関わる人に対して使い分けている。真剣に話したい人には真面目な部分を見せるし、面白おかしく話したい人にはテンション高く冗談もたくさん言う。英語圏の人相手に英語を話す私は、無意識のうちにオーバーにリアクションし、普段よりテンション3割増しになる。タガログ語を話すときは、陽気に明るくなって人前で歌ったり踊ったりもする。関わる相手、使う言語によって意識しなくても人格を使い分け、その集合体によって私の性格が形成されている。

私にとって恋愛をする人格は相手にしか見せないものであり、普段はずっと心の中の奥の方に鍵をかけてしまわれている。無理やりひっぱり出してこようものなら、本来とは違う場所に連れてきているものだから、とたんに居心地悪いようなむずがゆいような気分になる。だから、公共に対しての人格、友達に見せる人格、親への人格、これらと恋愛をする人格はうまく共存してくれない。こいつは、暗闇からいきなり明るいところにつれて来られて、うろたえてしまうのだ。

道行く仲睦まじいカップルを、冷静な人格は羨ましいと思う。そう思っていることに気づいた恋愛する人格は、もっともっと奥の方に鍵をかけて閉じこもってしまう。そして、まあ無理やり引っ張り出さなくてもいいか、時間がたてば自分から出てきたくなるだろう、とその他大勢の人格はその様子を穏やかに見守っているのだ。

2014年4月20日日曜日

見てきた!フィギュアスケート!

何事もテレビを通さず生で見るというのはとても迫力があるが、フィギュアスケートも生の迫力はすさまじかった!ジャンプってこんな高く飛んでるのか、とかこんなに早いスピードで回転してるのか、とか人間の身体能力にひたすら驚いた2時間半だった。

特に印象に残った選手の詳細を。

トップバッターは織田信成選手。小柄な身体はくるくると動き、笑顔が本当に魅力的でエンターティナーだった。

鈴木明子選手。この選手のスケートは迫力があった。柔らかい動きが本当に綺麗でバレエを見ているようだった。

村上佳菜子選手。真っ赤な衣装に妖艶な表情。後半にかけて曲のテンポが上がっていくにつれて会場の手拍子もヒートアップしていき、ぐいぐい引き込まれる演技だった。

町田樹選手。身体の芯が真っ直ぐで、姿勢がすごく良くて、手足はどこまでも伸びやかだった。荘厳な雰囲気の曲と白からブルーにかけてのグラデーションの衣装もとても美しかった。

アデリナ・ソトニコワ選手。黒い衣装で髪を振り乱してブラックスワンを踊る様子はもはやフィギュアというスポーツではなく舞台芸術のようだった。白鳥の湖では悪の象徴であるブラックスワン。その悪であることの虚しさや絶望感を全身から爆発させているような演技だった。見終わった後、思わず茫然自失。。すごいものを見てしまったという感じ。これぞ金メダリスト。

パトリック・チャン選手。身体の柔軟性がすごくて、動きが本当にしなやかだった。無駄な脂肪は一ミリもなく筋肉がぎゅっとつまった細い身体は芸術作品のようだった。

カロリーナ・コストナー選手。身長の高さが演技をダイナミックに見せていて、アベマリアの旋律に合わせ包み込まれるような演技だった。

そして羽生結弦選手。12頭身ぐらいなんじゃないかと思うほどのスタイルの良さ。手足は細く長く、1秒1秒の動きが美しかった。なんだか圧倒されてしまい、涙が出て仕方なかった。隣の人も泣いていた。美しいものを見ると人間って涙が出るんだなと思った。

そしてそして浅田真央選手!ベージュのキラキラした衣装に身を包んで、ポニーテールを弾ませながらするすると氷の上を滑る姿は本当に妖精のようだった。重力なんかこの世に存在しないかのようにふわっとジャンプし、くるくると回転し、高く足を上げる。関節などないようななめらかな手足の動き、そしてすごい運動量にもかかわらずずっと微笑んでいる表情!1秒たりとも見逃したくないとまばたきを忘れるほどだった。

あっという間の2時間半だった。本当にすごいものを見てしまったと思った。アルバイト5日分のチケット代を払っても、これからモヤシばっかり食べる節約生活になるとしても、見て良かった。こんなすごいものが見られる世界に生きていて、良かった。

2014年4月19日土曜日

テンション上がっております

今朝は課題が終わらなくて一睡もできなかったけど、そんなの全然へっちゃらなぐらい心がうきうきして止まらない。

死ぬまでに見たかったあの人を見に行くのです!わたし!

2014年4月17日木曜日

色を着ましょ

生ぬるい空気がもわっと肌を包み込む。じんわり汗をかきそうな蒸し暑さだ。

21時の電車は帰宅するサラリーマンの人でいっぱいだ。ほとんどが制服のように黒のスーツとネクタイ姿。七分丈Tシャツ一枚の私でも暑いのに、きっととんでもなく暑いだろう。ビジネスマナーとして仕方ないのかもしれないが。

同じ電車に、初老の男性が乗っていた。淡いブルーのスーツに白いシャツ、濃紺のネクタイを合わせ、コルビジェのような眼鏡をかけ、生成り色のハットを被っていた。黒スーツ集団の中で、そこだけスポットライトが当たっているかのように目立っていた。デザイナーか、ミュージシャンか、はたまた芸術家か。なんだか異様に格好良かった。

たかがファッション。だけどそれは知的さのわかりやすい証明だと思う。色合わせが美しかったらそれだけで数学的な頭の良さを感じる。

黒いスーツを着たサラリーマンの方々が色んな色を着たら、もっとわくわくするのになと思った。電車に乗っている人がみんな、淡いグリーンとか、サーモンピンクとか、レモンイエローのジャケット、パンツ、ネクタイに身を包んだ光景を想像して一人楽しくなる。

政治家の方々も、もっとカラフルな格好したら若者からも国会中継注目してもらえると思うよ。ファッショナブルな政治家を見たいよ。私は。

2014年4月16日水曜日

感想「冷たい熱帯魚」





















ずっと気になってはいたが、勇気が出なくて見られなかった映画だ。

あらすじ 
死別した前妻の娘と現在の妻。その折り合いの悪い二人に挟まれながらも、主人公の社本信行は小さな熱帯魚店を営んでいた。波風の立たないよう静かに暮らす小市民的気質の社本。だが、家族の確執に向き合わない彼の態度は、ついに娘の万引きを招く。スーパーでの万引き発覚で窮地に陥る社本だったが、そんな彼を救ったのはスーパー店長と懇意のある村田だった。村田の懇願により店長は万引きを許す。さらに大型熱帯魚店を経営する村田は、娘をバイトとして雇い入れる。その親切さと人の良さそうな男に誘われて、社本と村田夫婦との交流が始まる。しばらくして、利益の大きい高級魚の取引を持ちかけられる社本。それが、村田の悪逆非道な「ビジネス」を知り、同時に引き返せなくなる顛末への引き金となった――(Wikipediaより)

見た直後、しばらく動けなくなった。

園子音が語っていたように、この映画はエンターテイメントだ。ただしとんでもなくブラックな冗談のきついエンターテイメントだ。悪人の過剰なまでの悪人っぷり、弱いもののとてつもない弱さ。過剰なまでの血、肉、裸、そして人の死。後半にかけての急加速する怒涛の展開。
ストーリー、映像、音楽すべてが最後の最後までこれでもかと攻めてくる。

見た後、一週間もその映画のことが頭を離れず、心が重く苦しかった。
そして、落ち着いてきたころ、ふつふつと生命力みたいなものが湧いてきた実感があった。

それはきらきらと希望に溢れたものではなく、「死ぬものか、生きてやる」みたいな泥臭くて、格好悪いものだ。何とかして生にしがみつこうとするみっともないものだ。

最後の最後に、主人公の社本が娘に向かって言う。
「生きたいか?生きるってのはなあ、痛いんだよ!」

映画を見て、ここまで気持ちを揺さぶられたことはない。
生きることは苦しい。つらい。それでも私は生きてやる。

2014年4月15日火曜日

ふざけてたわけじゃないんです

人に、怒られてしまった。提出した書類に不備があって、100%完全に逃げも隠れも出来ないほど私が悪いことだった。

「○○に書いてますよね?」
「何で確認してないんですか?」
「あなたのためだけに私たち待たされてるんですけど」

真剣に聞かなきゃいけないのに、頭はぼんやりとして言われる言葉はするする耳から抜けていく。

怒られている間じーっと目を見られていたので、私も目をそらしちゃいけないのだと思い、じーっと見返した。にらめっこしてるみたいだと思った。

ミスをしたという事実はもう嫌というほどわかっていたから、もうその場を逃げ出したくて、でも逃げ出せないからせめてその現実から目をそむけたくて、にらめっこに集中していた。

結局耐えられなくて先に目をそらしてしまい、私の負けだった。ごめんなさい。

2014年4月13日日曜日

好物の力

実家に帰ると時間の流れがゆっくりに感じる。ぼんやりだらだらとしてしまって、いっぱい持って帰った宿題類は全然手をつけられず。

結局アパートに帰ってきた今、ぎりぎりで焦っているのだけれど、冷凍庫にハーゲンダッツが入っているという事実だけで頑張れる気がするよ。

2014年4月11日金曜日

白紙の日

何かあったと思うのだけど、何も思い出せない日だった。
おやすみなさい。

2014年4月10日木曜日

みんな誰かの大事な人

アルバイトから帰るために、電車に乗った。
スーツを着たサラリーマンのおじさん、OLのお姉さん、塾帰りのような高校生、同じくバイト帰りのような大学生、部活終わりの中学生など様々な人が乗っていた。

皆一様に、ほっとしたような疲れたような顔をしていた。帰る場所がある安心した表情だった。
みんな一人ひとりに、家族とか彼氏彼女とか子どもとか、その人の帰りを待っている人がどこかにいるのだろうなと思った。もちろん一人暮らしの人もいるのだろうけど、きっと離れていてもその人のことを大事に思っている人がどこかにいるのだ。

その事実になんだか涙が出て、それがもはや嬉しさなのか悲しさなのかどういう感情で泣いているのか自分でもわからず、目の前に立っていた中学生は、ハンカチで目を押さえる私を不安げな表情で見ていた。

情緒不安定か。

泣いてないの、花粉症がひどいのよ、という顔をして電車を降りた。

2014年4月9日水曜日

たどり着けない境地

もうだいぶ前のことなのだけれど、ふとさっき思い出したことがある。

知人と両親の話になったときに、私は言った。
「ずっと好きなことをさせてもらって親には迷惑をかけ続けているから、早く楽させてあげたいんよね。」

切実にそう思っていたから、その時私はとても真剣だった。だけど相手は笑って、流した。
「ははは、何言ってんの。ほんとうにマジメだね。」

私は相手に期待をしていた。言葉の重みを一緒に共感してほしいと思っていた。けれど、自分の気持ちの重みが相手にとってはそれほどでもないのだとわかったとき、少しショックだった。

言葉の意味は伝わっても、言葉の重みまでは伝わらない。

父が昔、結婚式のスピーチを頼まれたとき、「夫婦とは期待しないことです」と言ったそうだ。その話を聞いたとき、なんて夢のないスピーチなんだと思ったが、今は父の言った言葉の意味が少しわかる。

「期待をしない」とは人間関係の理想形なのだろう。言わば悟りの境地のようなものだと思う。

相手はわかってくれるに違いない、私の思いを受け止めてくれるに違いない。そう期待することは相手への依存だ。

期待をしなければ、余計なことに傷つかず、腹を立てることもない。期待をしないからこそ、相手のしてくれたことが余計に嬉しく感じられる。相手のことをするりと受け入れることができる。

諦めとか寂しいものじゃなく、静かに相手と向き合う境地。
頭ではわかっていながらも、まだ私はそこへ行けない。

2014年4月8日火曜日

豊かさとは?

2年前、フィリピンで生活を始めたとき、私はお金を使うことを極端にびびっていた。日本人ということで金持ちに見られたらどうしよう、と思い人前で小銭を見せるのすら怖いという感覚を持つほどだった。

私は、自分の持ち物を全て最安値のものだけで揃えていた。腕時計もカバンも持ってきていなかったので両方ともフィリピンのスーパーで購入した。日本円で400円のカバン、100円の腕時計を使い、わざと破れたズボンを履いていた。みすぼらしく見えるくらいがちょうど良いんだと自分に言い聞かせていた。

ようやく生活に慣れて周りが見えてくるようになると、みんなは普通におしゃれをしていることに気づく。アクセサリーをつけ、メイクをして、可愛いデザインの服を着て、おしゃれなカバンを持っていた。

確かに私は生活するのに最低限のものは持っていた。でも同時にみすぼらしい自分がイヤに思うこともあった。必要最低限のものに囲まれた生活は、ただただ貧しさだけを感じた。

400円のカバンがたった2ヶ月でどうしようもないほどぼろぼろになり、新しいカバンを買わなければいけなくなった。また同じものを買うこともできたが、私はデパートに行って1000円のカバンを買った。これも2週間悩んだ末の買い物だ。物が入るという機能ではなく、デザインが気に入って購入した。

そのとき、ああ豊かさってこういうことなんだなと実感した。デザインで選ぶという選択肢が増えること。そういう豊かさって人生をとても楽しくしてくれるんだと思う。だからそういう豊かさ、選択肢の多さを得るために人はお金を稼ぐんだと気づいた。

こういうことを考えてたときに、ネットでこんな言葉を拾った。

「人は富そのものでなく、富の変化量から効用を得る

お金を得るとその分人生の選択肢が増え、その選択肢が増えたっていう実感こそが豊かさなのだろう。

私はお金を稼ぎたい。そして人生の選択肢をたくさん増やしたい。

2014年4月7日月曜日

理想の生き方

人からどう見られるか、という意識から解放されるとすごく楽に生きられるのだろう。昔ほどは人にどう思われるか気にすることはなくなったけど、やっぱりたまーに「今の格好悪かったかな、イタいと思われるかな」と考えてしまってそういう自分が嫌になる。

仙人のように、何もかも達観して生きたいと思う。煩悩から解放されてさ。

2014年4月6日日曜日

美人に見える

American’s next top modelという好きな番組がある。なぜ好きかというと、普通の女の子が美女に豹変する様子が見られるからだ。

内容は18~24歳の14人のモデルを目指す女性が共同生活をしながら、毎週異なるテーマを与えられ撮影をし、その作品をプロのモデル、カメラマン、雑誌編集者がジャッジをして順位をつける。最下位になった人は脱落で、荷物をまとめて帰らなければいけない。毎週1人ずつ脱落していき、最終的に勝ち残った人は雑誌Vogueの表紙を飾ることができる、というものだ。

ハイファッションのモデルなので作品もアートっぽい。きれいにメイクして、きれいなドレスを着ている上からオイスターソースをかけられたり、絹のドレスを着てる上から蚕をたくさんつけられたり、マカオの超高層タワーの上で命綱をつけながら撮影したり、なんでここまで?と思うような状況がたくさんある。モデルって本当にタフな仕事なんだと初めて知った。

この番組の面白いところは撮影の様子や作品だけでなく、普段の共同生活の様子も見られるところだ。素の姿が見られ、すっぴんでおしゃべりしている様子など本当に普通の女の子に見える。モデルだと言われても「うーん本当に?」という感じだ。

それがカメラの前に立つと絶世の美女のように豹変し、その変わりようが本当にすごいのだ。普通の女の子なのにメイクし、ドレスを着ると気高い女王のような雰囲気になる。顔の造作は変わっていないのに美女になる。

最後残った二人から一人が優勝した後、審査員のプロのモデルが落選した女の子にかけた言葉が印象的だった。
「自分をプリンセスだと思って、いつも気高く振る舞いなさい。そうするとあなたはもっと美しくなれる。」

この番組を見ていると美人=表情の作り方が上手い人だということがわかる。綺麗な顔立ちが美人ということではないのだ。

Vogueのモデルにはなれないけど、美人じゃなくても美人に見せられるかも!と凡人の私にも夢を与えてくれるいい番組なのである。

2014年4月5日土曜日

facebookについて思うこと

たまーにfacebookを使う。だけど、時々もうアカウントを消してやめてしまいたいと思うことがある。なのでその理由を書く。

まず発信する側について。

「結局当たり障りのないことしか書けない」
facebook上の友人は、幼馴染、小学校、中学、高校、大学、アルバイト、留学、学外での活動などさまざまな年代、国籍の人たちだ。いつもふざけあう幼馴染や、真剣に話し合う大学の友達、たまに怒られるバイト先の社員さんや、尊敬する先生。それぞれの人に私は違う態度で接する。
だから、いつもふざけあう友人に真面目な部分を見せるのは非常に恥ずかしさを感じるし、友人に見せるふざけた態度を、大学の先生に見せるのも失礼だと感じる。しかしfacebook上では皆一堂に会しているため、結局、誰が見ても大丈夫なように、敬語で当たり障りのないことしか書けない。そうじゃない面白い投稿をする人もいるのだが、私にはそこまでの文章力がない。

続いて、見る側について。

「人が何をしているかわかること。」
これが私が最も苦手なところだ。facebook上では基本的にハッピーな投稿が多い。上に書いたように、facebookでは当たり障りのないことしか書けないので、当然ながら誰も傷つけない食べ物や旅行や、珍しい経験の投稿が多い。(そして私もそういう投稿をする一人だ。)
自分のことをハッピーじゃないとは思わないけど、人の幸せな投稿を見続けるとそうでない自分との落差に落ち込む。特に結婚報告とか赤ちゃんの写真とか..。比べてしまわないためには、見ないに限る。けどつい見ちゃう。そして落ち込む。


と、不満点を書いたが、まあこれからもやめないだろう。というのは2年前の留学中、アメリカ人の先生に言われた言葉が頭に残っているからだ。

「本を読んだり、人と話したりして何か自分の意見を持ったのなら、それは誰かと共有しないといけないんだよ。せっかくの自分の意見を他人と共有せず、自分一人で抱え込むことはとっても自己中心的でわがままなことなんだよ」

当初、自己主張をせず何でもかんでも言われっぱなしだった私は、この言葉を聞いて以来、たとえしょうもない意見でも出来るだけ人に話して意見を聞こうと思うようになった。

facebookには意見というほどたいそうなものは書いていないけれど、それでも自分の思ったことを共有するためのツールとして非常に便利だ。自分の言葉を、伝わっているかはともかくとして、何百人もの人に一気に発信することができる。

その一点のために、これからも私はヘビーフェイスブックユーザーであり続けるのだろうなと思う。

2014年4月3日木曜日

ダサいという魅力

ふわふわとした春の陽気の中、車の免許をとった。
面倒くさがって1ヶ月行かず、2ヶ月行かず、ずるずると先延ばしにしていた教習だったが、やっと今日学科試験が終わり、晴れて運転できる身となった。

免許センターに集まった滋賀県民の中で、ヤンキーの人たちを久しぶりに見て驚いた。プーマのジャージや金髪、スウェットにクロックス。昔と全然変わらない格好だった。
高校生のときは、ヘルメットをかぶらずバリバリ音を立ててバイクに乗ってる不良のお兄さんたちはしょっちゅう見かけたし、なぜか「ガンとばすなや」と追いかけられたこともある。けれど大学生になって大阪に通うようになると、そのようなヤンキーの人たちはすっかり見かけなくなった。

久しぶりに見たヤンキーの人たちは相変わらず近づきがたく、それでも7年前とまったく変わっていない服装はどこかおかしみを感じた。

ふふふ、田舎だなあ。

大阪のような派手さが無く、京都のように洗練されておらず、昔は自分の地元はダサくて早く出たい出たいと思っていた。 でも今はその垢抜けなさを好きだと思う。ヤンキーの変わらないファッションに表れているように、いつまでたっても洗練されないそののんきさというか、おだやかさがとてもいいと感じる。

今日も、田んぼは広がり、琵琶湖はひたひたと水をたたえる。初めて、育った土地を好きだと思った。

2014年4月2日水曜日

ヘイマイブラザー

一人っ子の期間が長かったから、弟が生まれたときは嬉しくて仕方なかった。毎日一緒に遊んで、生まれたときから私という遊び相手がいて弟はいいなーなんて思っていた。

弟が2歳ぐらいの頃、言葉がわかるようになってくると私は嘘をついた。「君は大きくなるとお猿になるんだよ」と言い続けていた。ある日、「僕は本当にお猿さんになるの?」と真剣な目で弟に聞かれたときの罪悪感はもう何年もたった今でも忘れられない。当の弟はそんなことすっかり忘れているのだろうけど。

月日は流れ、そんな彼も今日晴れて大学生となった。もう姉のくだらない嘘にも騙されてくれない。立派にジャケットなんか着ている弟は、なんだか見たことのない知らない人のようだった。

科学のちから

Youtubeで2歳の耳が聞こえない男の子が、機械を使って初めて母親の声を聞く動画を見た。思いがけず泣いてしまった。音が聞こえた瞬間のはっとした表情、きゃっきゃと喜ぶ仕草がひどく可愛らしかった。

ああ科学ってすごいんだなと思った。なんていい世界に住んでいるんだろうとも思った。今日も世界で新しい技術が生まれ、新しいことができるようになる。障害は障害でなくなっていく。

私には忘れられない光景がある。
浪人時代、予備校に向かう電車に乗っていたときのことだ。若いお母さんが赤ちゃんを抱っこしていた。私はその赤ちゃんの顔をぼんやりと見つめていた。なんだか惹きつけられるような不思議な表情だったのだ。しばらくして、ふとその赤ちゃんは目が見えていないことに気づいた。それでもどこかを見つめているようなその目は、澄み切っていてガラス玉のようにしっとりと光っていた。何もかも映し出しているような、全てを見通しているような瞳だった。私は、あの目よりも美しい目を持った人にそれ以降出会ったことがない。

Youtubeの動画を見ながら、その赤ちゃんのことを思い出した。

もし科学の力で、あの赤ちゃんがこの世の全てを見たとき、同じようにはっとして喜びの声を上げるのだろうか。あの透き通った瞳に、この世界の美しい風景を映し出してほしいと願う。

ぽっかり空洞

秋に買ってずっと気に入って何度も何度も着ていたセーターにぽっかり穴があいていた。
どこかに引っ掛けた時にできた小さなほころびがじわじわと広がり、気づけばもうどうにも手直しが出来ないぐらい大きな穴となってしまった。どうして気づかなかったんだろう。

いっぱい着た思い出とともに、新しい春のセーターを買おう。

2014年4月1日火曜日

笑っていいとも

いいともの最終回を見るためにわざわざ予定を変えた。

映画とか本でもすぐに泣いてしまうんだけれど、うきうきウォッチングが流れてきてすぐに泣いた。これを聞くのも最後かーと思うと寂しかった。

昔、熱を出して学校を休んだ日はおばあちゃんの家でいいともを見ていて、それが非日常で好きだったな。

ぐだぐだした雰囲気もお昼休みのざわざわ感にぴったりで、きちっと綿密に作りこまれたバラエティ番組がたくさんある中でちょっと異質だったなと思う。

あー本当に終わってしまった。