懐かしい友達に久しぶりに会おうと言われた。
見た目は全然変わっていなかったが、社会人2年目になる彼女はどこか大人びて見えた。営業の仕事の話を聞き、私は大学のことや留学していた時の話をした。にこにこしながら「うんうん」と聞いてくれていたけど、バリバリ働く彼女に対して相応しい話題を提供できなくて悪いなとちょっと思った。
2時間ほど話し、おもむろに彼女は自分の会社で扱う商品の説明を始めた。「あれ」と思う。心の中に違和感が広がる。要するにその商品を買わないか、という営業だったのだ。
「ごめん、貧乏学生だからそんな余裕なくって」と言った。その後、彼女からLINEのメッセージが届くたび気が重くなる。もう、会いたくないなと思った。
私はダマされやすそうな顔をしているのか、よく何かの勧誘をされる。新興宗教に関しては大学に入ってから6回、今でも人通りの多いところを一人で歩いていると声をかけられる。なんでだろうね、と母に聞いたら彼女もまた昔はそうだったようで、これはもう完全なる遺伝だ。
話しかけてくる人たちは皆一様に、にこやかで親しみやすそうだ。もちろんいきなり勧誘してきたりしない。道を聞かれたり、美味しいアイスクリーム屋さんはどこかと聞かれ、何も知らない私はそれに全力で答えたいと思う。
けれど話すうちに、「あれ、どうしてこの人は私の個人的なことを聞きたがるのだろう」「初対面の人間の連絡先を知りたがるのだろう」と徐々に心に疑いが生じ始める。そして「こんなイベントやってるんですよ」だとか「こんな勉強会あるんですよ」と見せられたチラシやノートに、幸せ、自己、神などの言葉が並んでいるのを見て確信する。「ああ、宗教の勧誘だったのか」と。
その後いつもどっと身体が疲れる。そして少し悲しくなる。道に迷ってなんかいなかったんだ。美味しいアイスクリーム屋さんなんか探してなかったんだ。彼らにとって私は勧誘しやすそうな駒でしかなかったんだ、と思う。
冒頭の営業の彼女にとってもまた、私は「顧客1」でしかなかった。もちろん宗教の勧誘の人と営業の彼女を一緒にするのはちょっと乱暴な気がするし、商売は商品を買ってもらわなければ成り立たない。
自営業を営んでいた祖父に昔、言われた言葉がある。「どこでお客さんになってくれるかわからないのだから、周りの人を大事にしなさい。」
そうやって人脈を作り戦後の大変な状況の中、一馬力で商売してきた祖父を私はとても尊敬する。
だから彼女が自分の人脈を使って知り合いである私に営業活動をするのはわかる。だけど心が重くなったのは、あたかもそんなふうじゃない、商売のためじゃないという様子で近づいて来られたことだった。それは新興宗教の勧誘の人が最初、道を聞いて来たり美味しいアイスクリーム屋さんはどこですか、と聞いてくることとよく似ていると思った。
勧誘してきてもいい。商品を売ってきてもいい。だけど、困っているふりをしないで、友達のフリをしないでと思う。
だって、勘違いしてしまうじゃないか。
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