2014年4月5日土曜日

facebookについて思うこと

たまーにfacebookを使う。だけど、時々もうアカウントを消してやめてしまいたいと思うことがある。なのでその理由を書く。

まず発信する側について。

「結局当たり障りのないことしか書けない」
facebook上の友人は、幼馴染、小学校、中学、高校、大学、アルバイト、留学、学外での活動などさまざまな年代、国籍の人たちだ。いつもふざけあう幼馴染や、真剣に話し合う大学の友達、たまに怒られるバイト先の社員さんや、尊敬する先生。それぞれの人に私は違う態度で接する。
だから、いつもふざけあう友人に真面目な部分を見せるのは非常に恥ずかしさを感じるし、友人に見せるふざけた態度を、大学の先生に見せるのも失礼だと感じる。しかしfacebook上では皆一堂に会しているため、結局、誰が見ても大丈夫なように、敬語で当たり障りのないことしか書けない。そうじゃない面白い投稿をする人もいるのだが、私にはそこまでの文章力がない。

続いて、見る側について。

「人が何をしているかわかること。」
これが私が最も苦手なところだ。facebook上では基本的にハッピーな投稿が多い。上に書いたように、facebookでは当たり障りのないことしか書けないので、当然ながら誰も傷つけない食べ物や旅行や、珍しい経験の投稿が多い。(そして私もそういう投稿をする一人だ。)
自分のことをハッピーじゃないとは思わないけど、人の幸せな投稿を見続けるとそうでない自分との落差に落ち込む。特に結婚報告とか赤ちゃんの写真とか..。比べてしまわないためには、見ないに限る。けどつい見ちゃう。そして落ち込む。


と、不満点を書いたが、まあこれからもやめないだろう。というのは2年前の留学中、アメリカ人の先生に言われた言葉が頭に残っているからだ。

「本を読んだり、人と話したりして何か自分の意見を持ったのなら、それは誰かと共有しないといけないんだよ。せっかくの自分の意見を他人と共有せず、自分一人で抱え込むことはとっても自己中心的でわがままなことなんだよ」

当初、自己主張をせず何でもかんでも言われっぱなしだった私は、この言葉を聞いて以来、たとえしょうもない意見でも出来るだけ人に話して意見を聞こうと思うようになった。

facebookには意見というほどたいそうなものは書いていないけれど、それでも自分の思ったことを共有するためのツールとして非常に便利だ。自分の言葉を、伝わっているかはともかくとして、何百人もの人に一気に発信することができる。

その一点のために、これからも私はヘビーフェイスブックユーザーであり続けるのだろうなと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿