好きな人と手をつないで街を歩けない。
友達に好きな人を紹介できない。
まして親になんてもってのほか。
私は、自分が恋愛をしている姿を人に見られることを極端に恥ずかしいと思う。いや、それは恥ずかしさともまた違う、複雑な感情を引き起こす。この居心地の悪さ、むずがゆさは一体何なんだと思ったときに、「私の恋愛する人格は他の人格とうまく共存できないのだ」と気づいた。
みんながみんなそうかは分からないけど
、人は自分の中にいくつもの人格をもっていて、それを関わる人に対して使い分けている。真剣に話したい人には真面目な部分を見せるし、面白おかしく話したい人にはテンション高く冗談もたくさん言う。英語圏の人相手に英語を話す私は、無意識のうちにオーバーにリアクションし、普段よりテンション3割増しになる。タガログ語を話すときは、陽気に明るくなって人前で歌ったり踊ったりもする。関わる相手、使う言語によって意識しなくても人格を使い分け、その集合体によって私の性格が形成されている。
私にとって恋愛をする人格は相手にしか見せないものであり、普段はずっと心の中の奥の方に鍵をかけてしまわれている。無理やりひっぱり出してこようものなら、本来とは違う場所に連れてきているものだから、とたんに居心地悪いようなむずがゆいような気分になる。だから、公共に対しての人格、友達に見せる人格、親への人格、これらと恋愛をする人格はうまく共存してくれない。こいつは、暗闇からいきなり明るいところにつれて来られて、うろたえてしまうのだ。
道行く仲睦まじいカップルを、冷静な人格は羨ましいと思う。そう思っていることに気づいた恋愛する人格は、もっともっと奥の方に鍵をかけて閉じこもってしまう。そして、まあ無理やり引っ張り出さなくてもいいか、時間がたてば自分から出てきたくなるだろう、とその他大勢の人格はその様子を穏やかに見守っているのだ。
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