夜、電車の窓に映った自分の顔にぎょっとした。
どよんとやつれた顔だった。
どよんとしている原因は明らかに肌だ。お肌の曲がり角と言われる25歳まであと2年となったのが納得できる。今まで日傘もささず、日焼け止めもまともに塗らず、化粧水やらクリームやらで手入れもしてこなかったツケがまわってきたのだと思った。
手入れを怠りながらも、今までは若さという力で何とか保ってきた。けれどここ最近、「あれ、こんなところにほくろあったっけ?」と鏡を見てびっくりすることが多々ある。明らかに肌がたるっとしているのもわかる。もう若さだけでは何とかならないところまで来てしまった。
何とかしなければいけない。そう思い、最近始めたのが「野菜をひたすら食べる」だ。栄養のあるものを食べて内側から何とかできないか作戦だ。
外側から手入れをするのは早々と諦めた。日傘は、いつも荷物が多いのでこれ以上荷物が増えるのは無理、日焼け止めはこまめに塗り直すのが面倒くさい、化粧水や美容液はよくわからない。
それで今はひたすら野菜を食べ続けている。適当に切って煮込みコンソメを入れてそれなりに美味しく食べている。
初めて3日目だが、変化はまだない。どうか栄養分をたっぷり吸収して肌の細胞を生まれ変わらせてくれ、とひたすら自分の胃腸に祈り続ける日々だ。
2014年5月30日金曜日
2014年5月29日木曜日
男女の間の大きな違い
女性は男性よりも傷つきやすいのだ、ということを書きたい。あくまでも仮説であり、実際にそうかはわからないが。
唐突だが、男女の身体的な差で一番の違いは何だろう。骨格とか筋肉量とかいくつかあるけれど、一番の違いは皮膚の厚みだと思う。私はお世話になった人と別れるときなど感謝の意を表すつもりで握手をするのが好きだ。また海外に行くと挨拶がわりに握手をする。そのたびにいつも男女の皮膚は厚みがずいぶん違うなあと感じる。男性と握手をすると圧倒的に自分は皮膚が薄いとわかる。逆に女性のときには自分と同じ厚みだ、と思う。
皮膚は身体の外装材だ。住宅の場合、外装材がしっかりしていれば中の熱は逃げないし、外が寒くても中まで簡単に冷えない。中は簡単に傷つかない。逆に外装材が薄ければ、中は外の影響を直接受ける。簡単に傷ついていく。身体と精神の関係もまた同様。薄い皮膚は弱い。身体を守っているものが弱いゆえに、簡単に精神まで傷がついてしまう。女性同士の会話で共感というのがすごく重要であるのも、お互い傷つきやすいがゆえに傷つけあってはいけないからなのだと思う。
男性には女性特有の傷つきやすさが理解してもらえないのではないか、と思ったのは小学5年生の時だった。その頃、女の子同士のグループで無視をしたりされたりといういざこざが起きた。学校に来れなくなった女の子がいて、緊急クラス会が開かれた。そこで、当時40代だった男性の担任教諭は「女の子同士のいろいろはよくわからないねー」と言った。関わるのが心から面倒くさそうだった。その時、「ああこの人に助けを求めようとしたことは間違いだった」と深く失望した。女の子同士がどれほど友人関係に気を張らなければいけないのか、たかが一度無視されるということがどれほど心に傷を負うのか、そんなことは男性の先生にはわかるはずないのだ、と。解決してくれたのは、女性の保健の先生だった。泣きながら話し合って、クラスの女の子同志は関係を修復した。
男性は傷つきにくい、女性の傷つきやすさをわかってくれない、と言いたいのではない。ただ、皮膚の厚みという身体的な男女差は心の傷つきやすさにも直接影響を及ぼすのではないか、それもまた男女の生物的な差ではないのか、思うのだ。そこは男性と女性の分かろうとしても分かり合えない違いだと感じる。だって持ってるものが違うのだ。
AKBの女の子が切り付けられた痛ましい事件が起きた。「誰でもよかった。」そんな理由で男性は女性を切りつけないで欲しい。それは男性が負う傷よりも大きな傷となる。
AKBのかわいい女の子もまた薄くもろい皮膚しか持たず、体の傷は直接心の傷となるのだから。
唐突だが、男女の身体的な差で一番の違いは何だろう。骨格とか筋肉量とかいくつかあるけれど、一番の違いは皮膚の厚みだと思う。私はお世話になった人と別れるときなど感謝の意を表すつもりで握手をするのが好きだ。また海外に行くと挨拶がわりに握手をする。そのたびにいつも男女の皮膚は厚みがずいぶん違うなあと感じる。男性と握手をすると圧倒的に自分は皮膚が薄いとわかる。逆に女性のときには自分と同じ厚みだ、と思う。
皮膚は身体の外装材だ。住宅の場合、外装材がしっかりしていれば中の熱は逃げないし、外が寒くても中まで簡単に冷えない。中は簡単に傷つかない。逆に外装材が薄ければ、中は外の影響を直接受ける。簡単に傷ついていく。身体と精神の関係もまた同様。薄い皮膚は弱い。身体を守っているものが弱いゆえに、簡単に精神まで傷がついてしまう。女性同士の会話で共感というのがすごく重要であるのも、お互い傷つきやすいがゆえに傷つけあってはいけないからなのだと思う。
男性には女性特有の傷つきやすさが理解してもらえないのではないか、と思ったのは小学5年生の時だった。その頃、女の子同士のグループで無視をしたりされたりといういざこざが起きた。学校に来れなくなった女の子がいて、緊急クラス会が開かれた。そこで、当時40代だった男性の担任教諭は「女の子同士のいろいろはよくわからないねー」と言った。関わるのが心から面倒くさそうだった。その時、「ああこの人に助けを求めようとしたことは間違いだった」と深く失望した。女の子同士がどれほど友人関係に気を張らなければいけないのか、たかが一度無視されるということがどれほど心に傷を負うのか、そんなことは男性の先生にはわかるはずないのだ、と。解決してくれたのは、女性の保健の先生だった。泣きながら話し合って、クラスの女の子同志は関係を修復した。
男性は傷つきにくい、女性の傷つきやすさをわかってくれない、と言いたいのではない。ただ、皮膚の厚みという身体的な男女差は心の傷つきやすさにも直接影響を及ぼすのではないか、それもまた男女の生物的な差ではないのか、思うのだ。そこは男性と女性の分かろうとしても分かり合えない違いだと感じる。だって持ってるものが違うのだ。
AKBの女の子が切り付けられた痛ましい事件が起きた。「誰でもよかった。」そんな理由で男性は女性を切りつけないで欲しい。それは男性が負う傷よりも大きな傷となる。
AKBのかわいい女の子もまた薄くもろい皮膚しか持たず、体の傷は直接心の傷となるのだから。
2014年5月27日火曜日
「わたしってクズだなあ」と思うことの快感
自分はなんてダメなんだと思うとき、そこにはちょっと甘い毒みたいなのが含まれていて、自己嫌悪に陥る状態はちょっと気持ちが良かったりする。
「はたらけど はたらけど猶 わがくらし 楽にならざり」という石川啄木の詩を読んだときこの人はナルシストだなと思ったし、太宰治の人間失格を読んだ時も同じようなことを思った。
一見深く考えているようで、苦しんでいるようで、悩んでいるようで、自己愛が強すぎるあまり「可哀相な自分、不幸な自分」というものに酔っているのではないのか、と。
もちろん啄木や太宰と私を一緒にするわけではないが、自己嫌悪に陥るときどこかその状態を気持ちよく思っている自分は確かにいて、それはけっこう毒だよなあと時々恐ろしくなるのだ。
「はたらけど はたらけど猶 わがくらし 楽にならざり」という石川啄木の詩を読んだときこの人はナルシストだなと思ったし、太宰治の人間失格を読んだ時も同じようなことを思った。
一見深く考えているようで、苦しんでいるようで、悩んでいるようで、自己愛が強すぎるあまり「可哀相な自分、不幸な自分」というものに酔っているのではないのか、と。
もちろん啄木や太宰と私を一緒にするわけではないが、自己嫌悪に陥るときどこかその状態を気持ちよく思っている自分は確かにいて、それはけっこう毒だよなあと時々恐ろしくなるのだ。
2014年5月26日月曜日
中学生のときに通っていたちょっと変わった塾の話
中学3年生になったばかりの頃だった。
そろそろ受験のためにちゃんと勉強を始めなくちゃと思っていたとき、祖母が近所の美容室で聞いた塾がいいと言われ、見学に行った。
そこは商店街の中にある長屋の住宅だった。入口は小さく本当に塾であるかわからない。看板もない。入口から薄暗い廊下を歩いていくと突然広い庭と木造2階建ての建物が現れ、その2階が中学生のための塾だった。先生は老夫婦で、名前を「適塾」といった。
ギシギシ音をたてる急な階段を上ると、畳10畳ほどの部屋に生徒6人が勉強していた。とても静かだった。私は一目でその場所が気に入り、入塾を決めた。
ここでの日々は、なんというかとても楽しかった。生徒は私を入れて女の子3人男の子4人の7人となった。「みんなどうやってこの塾を知ってここにたどり着いたんだろう」と疑問だったが、結局最後まで聞きそびれたままだった。商店街の喧騒から離れ、ひっそり集まって静かに勉強している私たちは何だか秘密結社のようだ、と思った。
ここでは毎回学校の試験の点数を報告しなければいけなかったのだが、100点をとると先生手作りのカステラが丸々一本もらえた。一番賢いニシノくんはいつも100点をとって毎回カステラをもらっているのを横目で羨ましく見ていた。一度、奇跡的に数学で100点をとることが出来たとき、念願のカステラを一本ご褒美にもらった。家に帰って家族と分け合って食べた。後にも先にもこれ一回きりだった。
勉強中にはいつもおやつが出た。あついほうじ茶と、小さいサイズのカステラやおせんべい、そして忘れられないのが、しいの実だ。これはドングリのような見た目で、ストーブの上に置いて煎ると皮が割れて、白く甘い実が出てくるのだ。こりこりとしてアーモンドのように美味しかった。
秋に一度生徒7人と先生でいつも先生が、しいの実を取りに行くという神社に連れて行ってもらった。そこで塾のおやつにする分をたくさん拾った。受験が近づいて気持ちが焦ってきた時のちょうど良い息抜きとなるちょっとした遠足だった。
無事高校受験が終わった後、カステラの作り方を教えてもらいに行った。50㎝×50㎝の巨大なカステラを作った。作りながら先生に、「なんで適塾っていう名前なんですか」と聞いた。ちょっと照れくさそうに「昔、緒方洪庵という人が適塾という塾をつくったからだよ。」と言われた。
「おのれの心に適(かな)うところを楽しむ」ということから適塾と名づけた緒方洪庵。今でも残るその塾の建物を写真で見ると、私が通った「適塾」ととってもよく似ていた。1年間、とても楽しい日々だった。勉強が楽しかったし、勉強以外のことがもっと楽しかった。
今でも実家に帰ると、たまにその塾の前を通ってみる。相変わらず入口はひっそりとしていて、まさか奥に塾があるようには見えない。あの時一緒に勉強をした6人は今どうしているのだろう。
その後高校生になって、大手のチェーン展開する学習塾や公文式にも通ったけれど、今でも塾と聞くと、真っ先に「適塾」のことを思い出す。薄暗い廊下や、しんと静まり返った畳の部屋、あたたかいほうじ茶に甘いしいの実。記憶の中のその日々はどこか実体が無く、幻だったのではないかと思えてくる。
先生、元気かな。
そろそろ受験のためにちゃんと勉強を始めなくちゃと思っていたとき、祖母が近所の美容室で聞いた塾がいいと言われ、見学に行った。
そこは商店街の中にある長屋の住宅だった。入口は小さく本当に塾であるかわからない。看板もない。入口から薄暗い廊下を歩いていくと突然広い庭と木造2階建ての建物が現れ、その2階が中学生のための塾だった。先生は老夫婦で、名前を「適塾」といった。
ギシギシ音をたてる急な階段を上ると、畳10畳ほどの部屋に生徒6人が勉強していた。とても静かだった。私は一目でその場所が気に入り、入塾を決めた。
ここでの日々は、なんというかとても楽しかった。生徒は私を入れて女の子3人男の子4人の7人となった。「みんなどうやってこの塾を知ってここにたどり着いたんだろう」と疑問だったが、結局最後まで聞きそびれたままだった。商店街の喧騒から離れ、ひっそり集まって静かに勉強している私たちは何だか秘密結社のようだ、と思った。
ここでは毎回学校の試験の点数を報告しなければいけなかったのだが、100点をとると先生手作りのカステラが丸々一本もらえた。一番賢いニシノくんはいつも100点をとって毎回カステラをもらっているのを横目で羨ましく見ていた。一度、奇跡的に数学で100点をとることが出来たとき、念願のカステラを一本ご褒美にもらった。家に帰って家族と分け合って食べた。後にも先にもこれ一回きりだった。
勉強中にはいつもおやつが出た。あついほうじ茶と、小さいサイズのカステラやおせんべい、そして忘れられないのが、しいの実だ。これはドングリのような見た目で、ストーブの上に置いて煎ると皮が割れて、白く甘い実が出てくるのだ。こりこりとしてアーモンドのように美味しかった。
秋に一度生徒7人と先生でいつも先生が、しいの実を取りに行くという神社に連れて行ってもらった。そこで塾のおやつにする分をたくさん拾った。受験が近づいて気持ちが焦ってきた時のちょうど良い息抜きとなるちょっとした遠足だった。
無事高校受験が終わった後、カステラの作り方を教えてもらいに行った。50㎝×50㎝の巨大なカステラを作った。作りながら先生に、「なんで適塾っていう名前なんですか」と聞いた。ちょっと照れくさそうに「昔、緒方洪庵という人が適塾という塾をつくったからだよ。」と言われた。
「おのれの心に適(かな)うところを楽しむ」ということから適塾と名づけた緒方洪庵。今でも残るその塾の建物を写真で見ると、私が通った「適塾」ととってもよく似ていた。1年間、とても楽しい日々だった。勉強が楽しかったし、勉強以外のことがもっと楽しかった。
今でも実家に帰ると、たまにその塾の前を通ってみる。相変わらず入口はひっそりとしていて、まさか奥に塾があるようには見えない。あの時一緒に勉強をした6人は今どうしているのだろう。
その後高校生になって、大手のチェーン展開する学習塾や公文式にも通ったけれど、今でも塾と聞くと、真っ先に「適塾」のことを思い出す。薄暗い廊下や、しんと静まり返った畳の部屋、あたたかいほうじ茶に甘いしいの実。記憶の中のその日々はどこか実体が無く、幻だったのではないかと思えてくる。
先生、元気かな。
2014年5月23日金曜日
ブログを書けるときと書けないとき
何となく書くことがないなあという日々が続いていたので、しばらく更新がとまってしまった。
久しぶりにパソコンに向かい、つくづくブログを書くというのは心躍る作業だなと思う。私は書くのがとても遅いので、記事一つに2,3時間は平気でかかる。書いては消し、書いては消しを繰り返し、思っていることにぴったり当てはまる言葉をひたすら吟味する作業はとっても楽しい。これは完全に趣味とか遊びの世界だと思っている。
ただ、書くにも出来事とか体験が必要で、気持ちがゆれる瞬間があって初めてそれを言葉にしたくなる。そして、何をしても何を見ても、どうにもこうにも心が動かないときがある。それは自分自身が何となく幸せで身体の調子もいいときだ。そういう時は日常がするすると過ぎてしまい、思い返しても特に何も印象に残っていない。
逆に、食べ物一つ、天気一つにも涙が出るほど心が震えるときがある。それはだいたいネガティブになっているときだ。「自分はだめだ」と思っているときほど、世界は綺麗に見えるような気がする。その時心はとっても敏感にいろんなことを感じ取る。
きっと落ち込むという行為が文字通り自分の心の沼に落ちている状態で、そこから外を見上げているからだろう。暗い沼の底から見る外の世界はいつも眩しく、美しく見える。
ただネガティブな状態が楽しいかといえば決してそんなことはなく、早く脱したいと願う。孤独感、絶望感、寂しさ、嫉妬とか、そういう感情は長く持ち続けられない。そしてハッピーな状態になればそれはそれで「つまらないなあ、もっとヒリヒリするような気持を味わいたいなあ」と思う。
要するに日々フラフラと感情は揺れ動き、ここ数日はのほほんとのんびり健康だったということだ。それはそれでとってもいいことなんだろうけど、やっぱりちょっとつまらない。
久しぶりにパソコンに向かい、つくづくブログを書くというのは心躍る作業だなと思う。私は書くのがとても遅いので、記事一つに2,3時間は平気でかかる。書いては消し、書いては消しを繰り返し、思っていることにぴったり当てはまる言葉をひたすら吟味する作業はとっても楽しい。これは完全に趣味とか遊びの世界だと思っている。
ただ、書くにも出来事とか体験が必要で、気持ちがゆれる瞬間があって初めてそれを言葉にしたくなる。そして、何をしても何を見ても、どうにもこうにも心が動かないときがある。それは自分自身が何となく幸せで身体の調子もいいときだ。そういう時は日常がするすると過ぎてしまい、思い返しても特に何も印象に残っていない。
逆に、食べ物一つ、天気一つにも涙が出るほど心が震えるときがある。それはだいたいネガティブになっているときだ。「自分はだめだ」と思っているときほど、世界は綺麗に見えるような気がする。その時心はとっても敏感にいろんなことを感じ取る。
きっと落ち込むという行為が文字通り自分の心の沼に落ちている状態で、そこから外を見上げているからだろう。暗い沼の底から見る外の世界はいつも眩しく、美しく見える。
ただネガティブな状態が楽しいかといえば決してそんなことはなく、早く脱したいと願う。孤独感、絶望感、寂しさ、嫉妬とか、そういう感情は長く持ち続けられない。そしてハッピーな状態になればそれはそれで「つまらないなあ、もっとヒリヒリするような気持を味わいたいなあ」と思う。
要するに日々フラフラと感情は揺れ動き、ここ数日はのほほんとのんびり健康だったということだ。それはそれでとってもいいことなんだろうけど、やっぱりちょっとつまらない。
2014年5月16日金曜日
自己啓発本が必要なとき
高校3年生の時だった。
当時、自己啓発本にハマっていた。「3週間で自分を変える方法」だとか「出来る人はここが違う」みたいなタイトルの本を、やたら読んでいた時期があった。なけなしのお小遣いをはたいて買い、それさえ読めば自分を変えられると思い込んでいたその時のことは、今思い出しても本当に嫌になる。思えば、本来なら受験勉強をしなければいけない時期に勉強に全然身が入らず、その現状をごまかすために自己啓発本に逃げていただけなのだと、今はわかる。
自己啓発本を読んでも人間はそんなに簡単に変われないのだな、と知ったのは浪人生活を経て2度目の受験も失敗した時だった。新しい大学生活が始まる前に、当時買い集めた自己啓発本を全て古本屋に持って行った。売り払うとともに、本にすがっていた自分も一緒に葬りたかった。
だからそれ以来、自己啓発本はずっと苦手だった。それを熱心に読んでいる人を心のどこかで冷ややかな目で見ていた。
だけど、今は思う。人にはそういう本が必要な時があるのだ、と。
大人になるということは自分で自分を肯定し続けることだと思う。子どもの頃のように誰も褒めてくれない。失敗したら怒られる。生きることに絶望したくなることはしょっちゅうある。
だから何か外からの力が必要となる。自分を少しでも良くする方法を見つけたくなる。そんな時、自己啓発本は、背中をえいっと押してくれる力となっているのかもしれない。結局何も変えられなくても、本を読んでいるときの「よし、これから自分は変わるぞ」という気持ちは決して嘘ではない。たとえそれがほんの一瞬のことであっても。
その小さな希望を積み重ねながら、今日も自分を生かすことができた、と何かに感謝するのだ。
当時、自己啓発本にハマっていた。「3週間で自分を変える方法」だとか「出来る人はここが違う」みたいなタイトルの本を、やたら読んでいた時期があった。なけなしのお小遣いをはたいて買い、それさえ読めば自分を変えられると思い込んでいたその時のことは、今思い出しても本当に嫌になる。思えば、本来なら受験勉強をしなければいけない時期に勉強に全然身が入らず、その現状をごまかすために自己啓発本に逃げていただけなのだと、今はわかる。
自己啓発本を読んでも人間はそんなに簡単に変われないのだな、と知ったのは浪人生活を経て2度目の受験も失敗した時だった。新しい大学生活が始まる前に、当時買い集めた自己啓発本を全て古本屋に持って行った。売り払うとともに、本にすがっていた自分も一緒に葬りたかった。
だからそれ以来、自己啓発本はずっと苦手だった。それを熱心に読んでいる人を心のどこかで冷ややかな目で見ていた。
だけど、今は思う。人にはそういう本が必要な時があるのだ、と。
大人になるということは自分で自分を肯定し続けることだと思う。子どもの頃のように誰も褒めてくれない。失敗したら怒られる。生きることに絶望したくなることはしょっちゅうある。
だから何か外からの力が必要となる。自分を少しでも良くする方法を見つけたくなる。そんな時、自己啓発本は、背中をえいっと押してくれる力となっているのかもしれない。結局何も変えられなくても、本を読んでいるときの「よし、これから自分は変わるぞ」という気持ちは決して嘘ではない。たとえそれがほんの一瞬のことであっても。
その小さな希望を積み重ねながら、今日も自分を生かすことができた、と何かに感謝するのだ。
2014年5月15日木曜日
使いたくてたまらない言葉たち
今、使いたくてしょうがない言葉がある。
「まるっと」と「十把一絡げ」だ。
意味は両方とも、「ひとまとめにすること」という似たようなものだと思うのだけど、発音したときの音が気持ちいい。特に、じっぱひとからげ。
「っ」と「パ」で弾けるような勢いがありながら、「ひとから」でリズミカルになって「げ」で強く締めるっていう流れがいい。
あと、「キッコーマン」とかも言いたくなる系の言葉だ。他にも「借地借家法(しゃくちしゃっかほう)」「部分分数分解(ぶぶんぶんすうぶんかい)」も、思わず声に出したくなる。
カ行と「っ」の組み合わせはからっと爽やかな感じがする。「カッコー」とか。「サ行」は言うまでもなく発音したときに口の中に風が吹くような爽やかさがあるし、それに「ゃ」が足されることで赤ちゃん言葉っぽくちょっとコミカルになる。バ行は連続するとリズム感が出て言いたくなる系の言葉になる。
人が本能的に口に出したくなる言葉、みたいなのを集めて分析して商品名を決めたら宣伝効果ばっちりじゃないか、と思っていたらそういう本があった。
怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか
音韻論というのを初めて知った。読んでみたい。
「まるっと」と「十把一絡げ」だ。
意味は両方とも、「ひとまとめにすること」という似たようなものだと思うのだけど、発音したときの音が気持ちいい。特に、じっぱひとからげ。
「っ」と「パ」で弾けるような勢いがありながら、「ひとから」でリズミカルになって「げ」で強く締めるっていう流れがいい。
あと、「キッコーマン」とかも言いたくなる系の言葉だ。他にも「借地借家法(しゃくちしゃっかほう)」「部分分数分解(ぶぶんぶんすうぶんかい)」も、思わず声に出したくなる。
カ行と「っ」の組み合わせはからっと爽やかな感じがする。「カッコー」とか。「サ行」は言うまでもなく発音したときに口の中に風が吹くような爽やかさがあるし、それに「ゃ」が足されることで赤ちゃん言葉っぽくちょっとコミカルになる。バ行は連続するとリズム感が出て言いたくなる系の言葉になる。
人が本能的に口に出したくなる言葉、みたいなのを集めて分析して商品名を決めたら宣伝効果ばっちりじゃないか、と思っていたらそういう本があった。
怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか
音韻論というのを初めて知った。読んでみたい。
2014年5月14日水曜日
2回目の冬と春
ゴールデンウィーク中に行った新潟はまだ雪が残っており、雪解けの隙間からふきのとうがひょっこりといくつも生えていた。
散歩していたご夫婦に天ぷらにすると美味しいと教えてもらい、いっぱい摘んできた。
天ぷら鍋が無いので、野菜炒めに。初めてのふきのとうは、ふんわりとしたいい香りでほろ苦かった。
そういえば昔、国語の教科書にふきのとうの話が載っていたなと思い、調べてみたら工藤直子さんの「ふきのとう」という詩だったことがわかった。小学2年生の国語の教科書で、読んだのはかれこれ16年前になる。
ふかれて ゆれて とけて ふんばって もっこりふきのとうがかおをだしました
「こんにちは」
もうすっかりはるです
16年ぶりに読んでも綺麗な文章だった。雪が積もってひんやり冷たそうな空気とか、でも太陽の光はだんだんぽかぽかと暖かくなって春に近づいていくのが感じられるような詩だった。
新潟ではまだ雪がたくさん残っており、桜は満開で花びらがひらひらと舞っていた。大阪ではすでに過ぎてしまった冬と春をいっぺんに経験できて、時間をさかのぼった気分だった。
2014年5月10日土曜日
中2病をこじらせていたとき
いわゆる中2病と呼べるのかわからないけど、あの年齢特有の「自分は人と違うんだ」という自意識をたっぷりもてあましていた時期が私にもあった。
まさに、中学2年生のときだった。
ある日、道徳の授業があった。その日は何だか偉い人が授業を見学に来ていて、先生も、生徒も少し緊張していた。
「心のノート」みたいな名前の教科書で、授業で扱った題材はこんな話だった。
サラリーマンのおじさん、年を取ったおばあさん、若いサラリーマンが満員電車に乗っている。おじさんが座席に座っていて、おばあさんが立っていた。それを見た若いサラリーマンが、おじさんに「おばあさんに席を譲ったらどうですか。」と声をかける。それに対しておじさんは怒り、「オレは疲れているから、座るために早起きしてわざわざ遠い駅まで行ってこの電車に乗ってきたんだ」と言う。若者はそれに対して、「おばあさんに席を譲るのは常識だ」と言う。二人は満員電車の中で口論になる。これを読んで誰が正しいのか議論しましょう、という授業だった。
「若いサラリーマンだと思う人」と先生が聞く。クラスのほとんどが手を上げる。
「なぜですか」
「お年寄りには席を譲らなければいけないからです」
「このおじさんはわがままです」
「おじさんがいくら疲れていても、おばあさんの方がもっとしんどいと思います」
クラスの意見が「おじさんが悪い」ということにまとまりかけていった。
中2病をこじらせていて、何か人と違うことを言ってやろうと思っていた私は手を上げた。
「私は若いサラリーマンではないと思います。」
「だいたい周りの人はどうしていたんでしょう。二人の口論を聞いている人はたくさんいるはずなのに、席を譲っていない。おじさんが悪者のように書かれているけれど、周りの人も見て見ぬふりをしているということは、同じように悪いことではないですか」
「そもそも、このおばあさんは本当に席を譲ってほしかったんでしょうか。健康のために立っていたかったということは考えられませんか。そんなことも想像せず、勝手におじさんに突っかかるこの若者はただ自分の正義感に酔っているだけではないですか」
何だか楽しくなってきて、言葉がとまらなくなった。
「それに、自分のために二人の男性が口論をして、その結果もし席を譲られたとしても、このおばあさんは本当に気持ちよく座れますか。おじさんの不満げな視線と、若者の勝ち誇った顔を見ながらその場所にいることは、おばあさんにとってとても苦痛なことではないでしょうか。そのことを想像できない若者もおばあさんにとっては決していい人だとは思えません。」
「おじさんは、本当に身体がしんどいのかもしれません。心臓が痛いのかもしれない。肺が痛いのかもしれない。表面には見えないけど、どこか体に大きな痛みを抱えていて、座っていないとしんどくてたまらない、ということは考えられませんか。」
「それなのに、どうしておじさんだけが悪いと言えるんでしょうか!」
自分の言葉に酔っていた。「さあ、誰か反論するがよい!」と思って席についたら、クラスの空気が冷え切っていたことに気づいた。見学に来ていた偉いおじさんが笑ってこっちを見ていて、目が合った。それが何だか嫌だった。
「そうですね、やまぐちさん、もう言いたいことはないですか」
そう先生に言われ、自分のしたことが急に恥ずかしくなった。友達に授業が終わった後、「さっきすごかったね」と冷やかされた。
ああ思い出しても、生意気な中学生だ。
人と違う視点もっているんですよアピールが、私のこじらせた中2病だった。思い出しても、「うわあああああ」と叫びたくなるぐらい、恥ずかしい。
当時の自分を成仏させたくて、書いた。
まさに、中学2年生のときだった。
ある日、道徳の授業があった。その日は何だか偉い人が授業を見学に来ていて、先生も、生徒も少し緊張していた。
「心のノート」みたいな名前の教科書で、授業で扱った題材はこんな話だった。
サラリーマンのおじさん、年を取ったおばあさん、若いサラリーマンが満員電車に乗っている。おじさんが座席に座っていて、おばあさんが立っていた。それを見た若いサラリーマンが、おじさんに「おばあさんに席を譲ったらどうですか。」と声をかける。それに対しておじさんは怒り、「オレは疲れているから、座るために早起きしてわざわざ遠い駅まで行ってこの電車に乗ってきたんだ」と言う。若者はそれに対して、「おばあさんに席を譲るのは常識だ」と言う。二人は満員電車の中で口論になる。これを読んで誰が正しいのか議論しましょう、という授業だった。
「若いサラリーマンだと思う人」と先生が聞く。クラスのほとんどが手を上げる。
「なぜですか」
「お年寄りには席を譲らなければいけないからです」
「このおじさんはわがままです」
「おじさんがいくら疲れていても、おばあさんの方がもっとしんどいと思います」
クラスの意見が「おじさんが悪い」ということにまとまりかけていった。
中2病をこじらせていて、何か人と違うことを言ってやろうと思っていた私は手を上げた。
「私は若いサラリーマンではないと思います。」
「だいたい周りの人はどうしていたんでしょう。二人の口論を聞いている人はたくさんいるはずなのに、席を譲っていない。おじさんが悪者のように書かれているけれど、周りの人も見て見ぬふりをしているということは、同じように悪いことではないですか」
「そもそも、このおばあさんは本当に席を譲ってほしかったんでしょうか。健康のために立っていたかったということは考えられませんか。そんなことも想像せず、勝手におじさんに突っかかるこの若者はただ自分の正義感に酔っているだけではないですか」
何だか楽しくなってきて、言葉がとまらなくなった。
「それに、自分のために二人の男性が口論をして、その結果もし席を譲られたとしても、このおばあさんは本当に気持ちよく座れますか。おじさんの不満げな視線と、若者の勝ち誇った顔を見ながらその場所にいることは、おばあさんにとってとても苦痛なことではないでしょうか。そのことを想像できない若者もおばあさんにとっては決していい人だとは思えません。」
「おじさんは、本当に身体がしんどいのかもしれません。心臓が痛いのかもしれない。肺が痛いのかもしれない。表面には見えないけど、どこか体に大きな痛みを抱えていて、座っていないとしんどくてたまらない、ということは考えられませんか。」
「それなのに、どうしておじさんだけが悪いと言えるんでしょうか!」
自分の言葉に酔っていた。「さあ、誰か反論するがよい!」と思って席についたら、クラスの空気が冷え切っていたことに気づいた。見学に来ていた偉いおじさんが笑ってこっちを見ていて、目が合った。それが何だか嫌だった。
「そうですね、やまぐちさん、もう言いたいことはないですか」
そう先生に言われ、自分のしたことが急に恥ずかしくなった。友達に授業が終わった後、「さっきすごかったね」と冷やかされた。
ああ思い出しても、生意気な中学生だ。
人と違う視点もっているんですよアピールが、私のこじらせた中2病だった。思い出しても、「うわあああああ」と叫びたくなるぐらい、恥ずかしい。
当時の自分を成仏させたくて、書いた。
2014年5月9日金曜日
アメリカはピンクグレープフルーツの味
ダイエット、というほどじゃないのだけれど、甘い飲み物は太る一番の原因だと聞いて以来ジュースは極力飲まないようにしている。だけどどうしても甘いものが飲みたくなったときは、ミニッツメイドのピンクグレープフルーツジュースを買う。フルーツなら何となく健康にも良さそうという理由もあるのだが、これを飲むと昔の懐かしい思い出がよみがえるのだ。
高校1年生の時、県の交換留学でアメリカのミシガン州の高校に1か月間通った。初めての海外で、英語もまともに話せない。何もかもわからない。
ある日、どうしても喉が渇いてしょうがなかったとき、カフェテリアの自動販売機へ飲み物を買いに行った。しかしどうやって買うのかわからない。コインで買うのか紙幣で買うのか、ボタンはどこを押すのか何も分からず、一人自動販売機の前で立ち尽くしていた。そこに一人、男の人が現れた。その人は同じクラスで、いつも全身黒づくめの格好をしていてファンキーな見た目で、一度も話したことがないその人を私は勝手にとても怖い人だと思っていた。
「何を買いたいの」と聞かれた。まさか話しかけられると思っていなかった私は焦って真っ先に目に入ったピンク色のジュースが入ったペットボトルを指さした。「こ、これが買いたい」
その人は1ドル札を自分の財布から出して、そのジュースを買ってくれた。にっこり笑って手渡してくれた。何だか心臓がドキドキして、「セ、センキュー」と言った。「お金は払う」と言おうとしたがその人はさっさと向こうに行ってしまった。
仕方なくごちそうになることにして一口飲んだそのジュースは、甘酸っぱくてそれがピンクグレープフルーツなのだとわかった。てっきりアメリカっぽい毒々しく着色されたスポーツドリンクのようなものだと思ったのだ。
心臓のドキドキとジュースの甘酸っぱさが相まって「これは恋か!?」と思った。結局その人と話したのはそれっきりだった。
今でもピンクグレープフルーツジュースを飲むと、この出来事を思い出す。その時のカフェテラスのざわめき、ハイテクマシーンのような自動販売機、そして黒ずくめの男の子がにっこり笑いかけてくれたことを。
私は、15歳の自分に戻り、いつもちょっぴり赤面する。
高校1年生の時、県の交換留学でアメリカのミシガン州の高校に1か月間通った。初めての海外で、英語もまともに話せない。何もかもわからない。
ある日、どうしても喉が渇いてしょうがなかったとき、カフェテリアの自動販売機へ飲み物を買いに行った。しかしどうやって買うのかわからない。コインで買うのか紙幣で買うのか、ボタンはどこを押すのか何も分からず、一人自動販売機の前で立ち尽くしていた。そこに一人、男の人が現れた。その人は同じクラスで、いつも全身黒づくめの格好をしていてファンキーな見た目で、一度も話したことがないその人を私は勝手にとても怖い人だと思っていた。
「何を買いたいの」と聞かれた。まさか話しかけられると思っていなかった私は焦って真っ先に目に入ったピンク色のジュースが入ったペットボトルを指さした。「こ、これが買いたい」
その人は1ドル札を自分の財布から出して、そのジュースを買ってくれた。にっこり笑って手渡してくれた。何だか心臓がドキドキして、「セ、センキュー」と言った。「お金は払う」と言おうとしたがその人はさっさと向こうに行ってしまった。
仕方なくごちそうになることにして一口飲んだそのジュースは、甘酸っぱくてそれがピンクグレープフルーツなのだとわかった。てっきりアメリカっぽい毒々しく着色されたスポーツドリンクのようなものだと思ったのだ。
心臓のドキドキとジュースの甘酸っぱさが相まって「これは恋か!?」と思った。結局その人と話したのはそれっきりだった。
今でもピンクグレープフルーツジュースを飲むと、この出来事を思い出す。その時のカフェテラスのざわめき、ハイテクマシーンのような自動販売機、そして黒ずくめの男の子がにっこり笑いかけてくれたことを。
私は、15歳の自分に戻り、いつもちょっぴり赤面する。
2014年5月8日木曜日
見倉の吊り橋の恐怖
ゴールデンウィークに新潟県の見倉橋に行ってきた。
「ゆれる」というオダギリジョー、香川照之、真木よう子が出ている映画の舞台となった橋だ。
高校生のとき映画館で見て衝撃を受け、DVDで借りて見直すぐらい好きな映画だ。もちろんここへ行く前にも見た。
「ゆれる」の中では、この橋から真木よう子が転落死する。その事件をめぐって兄弟である香川照之とオダギリジョーの揺れ動く心理を描いた物語だ。
この映画が好きすぎるあまり追体験をしたくなり、実際に行くことにした。
もちろん実際の橋は転落などしないようにロープがしっかりと張ってあったが、やはり吊り橋自体はゆらゆらと揺れた。下の川がごうごうと音を立てているのが余計に、落ちたらどうしようという恐怖感を煽る。
実際に渡ってみて、この橋の上では人間は圧倒的に弱者だと感じた。例えば雄大な自然を私は美しいと思って見る。けれど、ここでは山と川の中にひっそりと弱々しく揺れる橋があるのみだ。ただただ山の大きさに圧倒され、川の流れの激しさに恐怖する。橋は、「渡る」という目的のみを果たしている。ただ自然を邪魔しないように、ひっそりと。そこに建築的な装飾など何一つ無く、それは最小限の材料で、質素で、でも究極に美しかった。
人間は自然をコントロール出来ない、と思う。自然の中に住まわせてもらって、生かしてもらっているのだなあ、とおおげさな感想を抱いて帰路に着いた。
2014年5月4日日曜日
人間は男と女にわかれているのだと知ったとき
小学3年生のとき、いつも休み時間はクラス全員で遊んでいた。ドッジボールやケイドロや鬼ごっこ。男の子も女の子も一緒だった。楽しくて仕方なくて、この休み時間のために小学校に通っていた。
それもまた隠されるべきもので、子どもが大人にそれを追及することは大人を困らせることなのだと知った。苛立った気持ちがよみがえった。急に意地悪な気持ちが湧いてきた。でも母を困らせるのは可哀相だと思い、追及するのはやめた。
それから何年もの中で、人間の真理を少しずつ学んだ。男女の間には何か打算的なものが必ずあり、それなしには生きていけないのだということも知った。そして、いつの間にか男女の女の側として生きることに何の抵抗も感じなくなった。
だけど、そんなこと何も知らないでただ人間としてのびのび世界を楽しんでいたときのことを時々懐かしく思う。
小学3年生と4年生。それは世界の終わりと始まりだった。
小学4年生になったら、いつの間にか男の子と女の子は一緒に遊ばなくなった。女の子は女の子だけで集まるようになった。女の子が男の子と関わるときには、そこに甘えだとか、媚びだとかいうものが入り込んできたような気がした。私は何だか面白くなくて、3年生のときのように、ただの友達みたいにみんな一緒に遊べたらいいのに、と思っていた。
女子だけが集められた性教育の授業があったのはこの時だ。男の子には秘密にされるべきことだ、というような感じで先生が話していたことは、何だか得体のしれない気持ち悪いことに思えた。男と女の間には隠されるべきことがある、というコソコソした感じに何だか苛立った。わけもわからず嫌な気分になった。今まで隠されていたものを知ったとき、男の子と女の子がただ一緒に楽しく遊べなくなった理由がわかった気がした。
ちょうどその頃、忘れもしない出来事がある。母と無印良品に買い物に行ったときのことだ。化粧品コーナーに興味があった私はキラキラと色とりどりの化粧品をうっとりと眺めていた。子どもの身長の高さで、ふと目を落としたとき、その先にあったもの。その小さな箱の見慣れないカタカナ5文字が気になった。買い物を終えた母が近づいてきたので、聞いた。
「ねえお母さん!これ何?」とその名前を口に出した。
「ねえお母さん!これ何?」とその名前を口に出した。
その時の母のぎょっとした顔と、周りの大人が急に振り向いた様子。「あ、あとで教えてあげるね。もう帰ろうね」となぜかそそくさと店を後にしたときのことを覚えている。
それもまた隠されるべきもので、子どもが大人にそれを追及することは大人を困らせることなのだと知った。苛立った気持ちがよみがえった。急に意地悪な気持ちが湧いてきた。でも母を困らせるのは可哀相だと思い、追及するのはやめた。
それから何年もの中で、人間の真理を少しずつ学んだ。男女の間には何か打算的なものが必ずあり、それなしには生きていけないのだということも知った。そして、いつの間にか男女の女の側として生きることに何の抵抗も感じなくなった。
だけど、そんなこと何も知らないでただ人間としてのびのび世界を楽しんでいたときのことを時々懐かしく思う。
小学3年生と4年生。それは世界の終わりと始まりだった。
2014年5月3日土曜日
過去との対面
最近、昔の出来事をよく思い出す。それはもう堰を切ったように、溢れ出てくる。
前は、自分の幼少期のことは全然思い出せなかったのだ。「小さい時の思い出は?」と聞かれても言葉に詰まり、何も思い出せない私は頭が悪いんだろうか、とずっと思っていた。
だけど、特に最近、ブログを毎日書くようになってから昔の出来事を鮮明に思い出す。
当時の感情が生々しく甦る。そのことが何だかとても怖い。
記憶の中の幼い私は、何だか知らない子どものようだ。もし目が合ったりなんかしたら私は急いで目をそらすだろう。だけど、書いておかなきゃと思う。あの頃の感情を成仏させるように、小さい頭で思っていたことをきちんと形にしたい。
幼い私は、子どもらしい可愛げなんてちっとも持ってなかった。にこにこせず、いつもキッと大人を睨みつけていたと母から聞いたとき、思わず苦笑いした。
だけど、にこにこしないかわりに、あの時私がこっそり見ていたものを、その時蓄積していたものを、今少しずつ解放していきたいと思う。
前は、自分の幼少期のことは全然思い出せなかったのだ。「小さい時の思い出は?」と聞かれても言葉に詰まり、何も思い出せない私は頭が悪いんだろうか、とずっと思っていた。
だけど、特に最近、ブログを毎日書くようになってから昔の出来事を鮮明に思い出す。
当時の感情が生々しく甦る。そのことが何だかとても怖い。
記憶の中の幼い私は、何だか知らない子どものようだ。もし目が合ったりなんかしたら私は急いで目をそらすだろう。だけど、書いておかなきゃと思う。あの頃の感情を成仏させるように、小さい頭で思っていたことをきちんと形にしたい。
幼い私は、子どもらしい可愛げなんてちっとも持ってなかった。にこにこせず、いつもキッと大人を睨みつけていたと母から聞いたとき、思わず苦笑いした。
だけど、にこにこしないかわりに、あの時私がこっそり見ていたものを、その時蓄積していたものを、今少しずつ解放していきたいと思う。
感想「流星ワゴン」
著者からの内容紹介
38歳、秋。ある日、僕と同い歳の父親に出逢った 。
僕らは、友達になれるだろうか?
死んじゃってもいいかなあ、もう……。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして 自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか ?
私はかつて思っていた。
恋人ができれば、結婚すれば、子どもが出来れば、それはとても幸せな状態なのだろう、と。
それはまるで自分以外の誰かが、勝手に私をどこか幸せな場所へ連れていってくれるようなことだと思っていた。
でも人間同士の営みに確かなことなんて存在しない。感情は生もので日々移り変わってゆく。好きだという気持ちが一瞬で嫌いに変化するなんてことしょっちゅうある。でもその感情の豊かさこそが、生きているという証なのだと思う。
結婚、家族、親子。それらは単なるパッケージで、そこに幸福はセットになっていない。自分で幸せにしていく、という絶え間ない作業が必要なのだ。
この物語は、それがうまくできず、崩壊しきった家庭を持つ男が主人公だ。そして過去にさかのぼり、妻との、子どもとの、父とのほころびを一つずつ修復していこうとする。崩壊した家族、絶望的な状況はなにも変わらないラストだが、微かな希望とともに終わるところに少し救われる。
人の気持ちは目に見えない。相手が何を考えているかなんてわからない。だからこそ想像する。そして間違いも起こす。でもそれこそがロボットとは違う人間の面白さで、可笑しさで、難しさなのだろう。
主人公と同じ38歳のときにまた読んだら、きっと違う感想を抱くのだろうな。
主人公と同じ38歳のときにまた読んだら、きっと違う感想を抱くのだろうな。
2014年5月2日金曜日
言葉が未熟だった頃
人生の中で、鮮明に覚えている瞬間というものがある。
たとえそれがどんなに昔のことであっても。
その時、私は3歳だった。ある日、保育園の3歳クラスに大量のおはじきが届いたことがあった。箱いっぱいに入ったプラスチックのおはじきにみんな大喜びし、おままごとや、転がしてあそんだり、アクセサリーのようにしてみたり、思い思いに遊んでいた。
たとえそれがどんなに昔のことであっても。
その時、私は3歳だった。ある日、保育園の3歳クラスに大量のおはじきが届いたことがあった。箱いっぱいに入ったプラスチックのおはじきにみんな大喜びし、おままごとや、転がしてあそんだり、アクセサリーのようにしてみたり、思い思いに遊んでいた。
私は一人で、2リットルの空のペットボトルにひたすらおはじきを詰めるという作業に熱中していた。ぎっしりと色とりどりのおはじきで埋め尽くされていくペットボトルは、うっとりするほど美しかった。せっせと詰めて、やっといっぱいになった!とキラキラしたペットボトルを眺めていたとき、先生が急に怒った。「何してるの!こんなことしたら、おはじきが取り出せなくなるでしょう!」
先生はペットボトルを逆さに持った。驚いたことに、おはじきは外に出てこなかった。ぎゅうぎゅうに詰まったおはじきは、逆さにしても直径2センチぐらいの口から落ちなかったのだ。
口が開いているのに落ちない!その事実に3歳の私は驚愕した。
先生は怒り続ける。
「こんないっぱい独り占めしてみんな遊べないでしょ」
「ほら、もうおはじき出てこなくなったでしょ」
でも私はその時聞きたかった。「なんで、どうして、すごい、入れたのに出てこないなんて」
でも、聞けなかった。聞くべき言葉がわからなかった。その時のもどかしい気持ちと、怒られているということの決まり悪さ。
昔のことはあまり覚えていないのだけど、この3歳のときの出来事だけは20年経った今でも鮮明に思い出せる。ぎっしり詰まったおはじきの美しかったこと、突然先生に怒られた言葉の一言一句、そして口が開いているのに逆さにしても中に入っているおはじきが落ちてこなかったこと。
その時のことは母にも言えなかったし、誰にも言わなかった。あの美しさとか驚きを誰にもわかってもらえないだろうなと何となく幼い頭で思っていた。それに、その状況を伝えられる言葉をまだ3歳の私は持っていなかった。
ブログを書きだして、あの頃の自分と向かい合うことができ、やっと言葉にできてほっとしている。
その時のことは母にも言えなかったし、誰にも言わなかった。あの美しさとか驚きを誰にもわかってもらえないだろうなと何となく幼い頭で思っていた。それに、その状況を伝えられる言葉をまだ3歳の私は持っていなかった。
ブログを書きだして、あの頃の自分と向かい合うことができ、やっと言葉にできてほっとしている。
2014年5月1日木曜日
自由にのびのび動き回るのです
誰も君のことなんか見てない。
たまたまタンブラーに流れてきて、上の記事を読んだ。何だか今の自分に言われているようで、心に沁みた。気持ちが少し軽くなった。
今日ちょっと、というかかなり恥ずかしい思いをした。もともとない自信をさらに無くした。
けど、そんなの関係ねえ!
だって誰も私のことなんか見てないんだもの!
たまたまタンブラーに流れてきて、上の記事を読んだ。何だか今の自分に言われているようで、心に沁みた。気持ちが少し軽くなった。
今日ちょっと、というかかなり恥ずかしい思いをした。もともとない自信をさらに無くした。
けど、そんなの関係ねえ!
だって誰も私のことなんか見てないんだもの!
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