中学3年生になったばかりの頃だった。
そろそろ受験のためにちゃんと勉強を始めなくちゃと思っていたとき、祖母が近所の美容室で聞いた塾がいいと言われ、見学に行った。
そこは商店街の中にある長屋の住宅だった。入口は小さく本当に塾であるかわからない。看板もない。入口から薄暗い廊下を歩いていくと突然広い庭と木造2階建ての建物が現れ、その2階が中学生のための塾だった。先生は老夫婦で、名前を「適塾」といった。
ギシギシ音をたてる急な階段を上ると、畳10畳ほどの部屋に生徒6人が勉強していた。とても静かだった。私は一目でその場所が気に入り、入塾を決めた。
ここでの日々は、なんというかとても楽しかった。生徒は私を入れて女の子3人男の子4人の7人となった。「みんなどうやってこの塾を知ってここにたどり着いたんだろう」と疑問だったが、結局最後まで聞きそびれたままだった。商店街の喧騒から離れ、ひっそり集まって静かに勉強している私たちは何だか秘密結社のようだ、と思った。
ここでは毎回学校の試験の点数を報告しなければいけなかったのだが、100点をとると先生手作りのカステラが丸々一本もらえた。一番賢いニシノくんはいつも100点をとって毎回カステラをもらっているのを横目で羨ましく見ていた。一度、奇跡的に数学で100点をとることが出来たとき、念願のカステラを一本ご褒美にもらった。家に帰って家族と分け合って食べた。後にも先にもこれ一回きりだった。
勉強中にはいつもおやつが出た。あついほうじ茶と、小さいサイズのカステラやおせんべい、そして忘れられないのが、しいの実だ。これはドングリのような見た目で、ストーブの上に置いて煎ると皮が割れて、白く甘い実が出てくるのだ。こりこりとしてアーモンドのように美味しかった。
秋に一度生徒7人と先生でいつも先生が、しいの実を取りに行くという神社に連れて行ってもらった。そこで塾のおやつにする分をたくさん拾った。受験が近づいて気持ちが焦ってきた時のちょうど良い息抜きとなるちょっとした遠足だった。
無事高校受験が終わった後、カステラの作り方を教えてもらいに行った。50㎝×50㎝の巨大なカステラを作った。作りながら先生に、「なんで適塾っていう名前なんですか」と聞いた。ちょっと照れくさそうに「昔、緒方洪庵という人が適塾という塾をつくったからだよ。」と言われた。
「おのれの心に適(かな)うところを楽しむ」ということから適塾と名づけた緒方洪庵。今でも残るその塾の建物を写真で見ると、私が通った「適塾」ととってもよく似ていた。1年間、とても楽しい日々だった。勉強が楽しかったし、勉強以外のことがもっと楽しかった。
今でも実家に帰ると、たまにその塾の前を通ってみる。相変わらず入口はひっそりとしていて、まさか奥に塾があるようには見えない。あの時一緒に勉強をした6人は今どうしているのだろう。
その後高校生になって、大手のチェーン展開する学習塾や公文式にも通ったけれど、今でも塾と聞くと、真っ先に「適塾」のことを思い出す。薄暗い廊下や、しんと静まり返った畳の部屋、あたたかいほうじ茶に甘いしいの実。記憶の中のその日々はどこか実体が無く、幻だったのではないかと思えてくる。
先生、元気かな。
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