2014年12月26日金曜日

トビタテ留学JAPAN事前研修感想 それは研修という名の「己を知る時間」だった


2月に控えるフィリピンへの渡航前に、今回奨学生に採用していただいたトビタテ留学JAPANの事前研修に参加してきた。ロバート・キャンベル氏の講演やヤンググローバルリーダーの方のパネルディスカッション、グループでのプレゼンテーションなどとにかく盛りだくさんな内容だったのだが、特に印象に残ったのは「自分の軸の発見」であった。

私は、トビタテに採用していただいたのはありがたいと思うものの、自分の計画がふわふわとした具体性のないものであることがずっと心苦しかった。そういった中での事前研修参加であり、しっかりとした自分の言葉で計画内容を話せないことに非常に焦りを感じていた。

まずこの研修では徹底的に聞いて書いて話して、聞いて書いて話して、を繰り返す2日間であった。そうやって自分を見つめる作業の中で軸として浮かび上がってきたものは、「他者への尊敬」と「文章を書くこと」だった。

恥ずかしながら、私は大学で建築を専攻しつつも今まで建築が好きだと胸をはって言えなかった。設計が得意でない自分にいつも負い目を感じていた。今思えば視野が狭いのだが、設計こそが建築の世界の中で最もキラキラ輝くメインステージのように見えていて、私もそこに立てるものなら立ちたかった。デザイナーを名乗れる人になりたかった。

一方で才能溢れる人たちを目の当たりにして、呼吸をするように図面を書いたり模型を作ったりする人がいて、自分にはその才能は持ち合わせていないのだということも嫌というほどわかっていた。けれど認めたくなかった。出来もしない「設計」にみっともなくすがりつきたかった。

研修の中で自分の軸が「他者への尊敬」と「文章を書くこと」だとわかったとき、なんだかとても納得できた。

私は人が好きなのだ。人の生き方に、暮らし方にとても興味があって、それを文章で表現するとき私の心は最も高揚してわくわくするのだと初めて気づいた。9か月前、トビタテに応募するときに「スラムで調査をしたい」と思った動機は、きちんと自分の軸から生まれたものだったとわかってとても腑に落ちた。

「建築を専攻してどうしてフィリピンなの?」「どうしてスラムなの?」という問いに対しても、「私は人の生活に興味があって、日本の外の異なる文化圏の人が、異なる経済圏の人がどういう生き方をしているのか知りたいのです。そして発見したことをあなたや誰かに伝えたいのです」と胸をはって説明できる気がした。

残念ながらゼロから格好いい造形を生み出すオリジナリティは持っていなかったけれど、それとは別の軸がちゃんと自分にはあったのだ、とわかって嬉しかった。

この二日間、自分一人だとしんどくて考えるのを放棄してしまいそうなことを徹底的に考える時間を与えてもらえて本当にありがたいと思う。(当初怪しい自己啓発セミナーだったらどうしようと疑った自分を反省する。)

奨学金という誰かのお金で調査に行く、ということはちょっぴりプレッシャーを感じることではあるけれど、でもそのプレッシャーはきっと、現地で「もうだめだ」と思った時に少しだけ踏ん張れる力になるのかもしれない。軸がはっきりした今、計画をより具体的なものにしてフィリピンでの経験をきちんと自分の血肉にしたいと思う。

2014年12月15日月曜日

アートアクアリウムで金魚の艶めかしさに打ち震えた



二条城で開催されていたアートアクアリウムを見に行ってきた。

唐突だが、2月21日生まれの私は小学校低学年まで自分の星座を水瓶座だと思い込んでいた。「みずがめざ」という華やかな音の響きが気に入っていたし、水瓶は薄水色のガラスでできたキラキラとした壺に透明な水がたっぷり入っているものだと信じて、その想像上の美しさにうっとりとしていた。

あるとき、「水瓶座は2月18日生まれまでで、2月21日生まれは魚座なのだ」ということを人に言われ、とてもショックを受けた。「うおざ」というもっさりした音の響きに加え、その魚も、でっぷり太った真っ黒な鯉のようなものしか頭に浮かばず、なんだか可愛くなくてずっと好きになれなかった。

だが、私は魚の美しさを、艶めかしさを何も知らなかったのだ。アートアクアリウムを見終えたあと、魚の星の元に生まれたことをひとり感謝した。

以下、その時撮った写真。


尾ひれは薄い絹のよう。目はどこかをみているようで、どこも見ていないようにも思える。金魚の顔は、表情がわからない。


こういう言い方は不謹慎かもしれないけれど、水槽の中で泳ぎ続ける魚たちはどこか死を思わせた。


鑑賞用に交配され、愛でられるためだけに生まれた金魚は、美しくライトアップされた水槽の中で泳ぎ続ける。それこそが死に向かうまでの唯一の存在意義であるかのように。


金魚が自らの死期を悟っているかなんて知る由もないけれど、泳ぎ続ける姿は、静かにその時を待っているように思えてしょうがなかった。


それが、ぞっとするほど艶めかしかった。

2014年12月13日土曜日

[講演感想]建築家伊礼智さん「小さな心地よい居場所に惹かれて」

伊礼智の「小さな家」70のレシピ (エクスナレッジムック)

建築家の伊礼智さんの講演を聞いた。

講演の中では今まで手掛けられたたくさんの住宅の写真を一つ一つ見せて説明された。そしてその住宅には、昼寝のためだけのスペースや絵本を読むためのふかふかのクッションが敷かれた小さな部屋、2畳ほどの茶室のような空間などまさに小さな心地よい居場所がいくつも作られていた。お話を聞きながら私はふと、自分の幼い頃を思い出した。

今から20年ほど前、いつも保育園に迎えに来てくれた祖母の家に帰ると、私の居場所は居間の食卓テーブルの下だった。テーブルの下に潜り込んで脚と脚の間にぺたんと座り、おもちゃで遊ぶのも絵本を読むのも昼寝をするのもその場所だった。そんな私を見て祖母はよく「もっと広いところに来たら?」「そんな暗いところにいると目が悪くなるよ」と言ったが、そこから出てくるようになったのはもう少し身体が大きくなった小学生の頃だった。

テーブルの下の薄暗い感じ、ひんやりとした床の冷たさ、4本の脚の間に自分が収まる感じ。もうその家はないのだけれど、身体はその時の感覚を鮮明に覚えている。

伊礼さんがご自身の作品を一つひとつ説明されるときに、「単純なプランですけど」という言葉を何度も言われた。けれどそのわかりやすく明快なプランの中には、私にとってのテーブルの下のような、たとえその家で暮らすことがなくなっても記憶や感覚に残り続けるだろうなと思える空間がいくつも作られていた。

「自分が作るものは、地味で質素で簡素でいい。でも一目見て人の心を揺さぶるものを作りたい、ということを50歳を超えてやっと思った。」という言葉が印象に残った。

質疑応答の時に一つだけ質問させていただいた。
「一目見て人の心を揺さぶるものを作るためには、どのような勉強、経験が必要ですか。」と。

それに対しておだやかな口調でこう答えられた。
「目を養い、手を練れという言葉があります。とにかくいいものを見て、それを書き写してください。私は吉村順三さんの品のある建築が好きですが、先生や友達にもいい建築は何か尋ね、それをひたすら見て体験してください。」

やはり一朝一夕には身に着くものでないのだなと痛感したが、幼いとき、私は確かに小さな心地よい場所を体験していたのだということを思い出して、なんだかとても嬉しかった。

2014年12月1日月曜日

工場跡に巨大アート、と作ったものいろいろ


先週の3連休の真ん中に、大阪住之江の工場跡地に展示された巨大アート作品を見に行った。

工業地帯を迷いながら、どこにアートがあるのだろうと歩き回った果てにたどり着いたときは、まさに別世界へ連れてこられたような感覚であった。

アートのことは全く詳しくない私だが、思わず「ほー!」と声を上げてしまう作品たち。そしてそれらが「安全第一」と横断幕のかかる無機質な工場跡に並んでいるというのに、全く不自然さが感じられなかった。むしろ巨大アートと広い工場のスケール感はぴったりで、それらを目の前にしていると自分が小人になったような気分だった。


30分に1回動き出す「ジャイアント・トらやん」
お腹の小窓がぱかっと開き、ちっちゃいジャイアント・トらやんが中から出てきた。


東日本大震災からの復興と再生への願いが託されたという「サンチャイルド」
奈良の大仏同様、見上げなければいけないものには見る者に自分の存在の小ささと「守られている感」を感じさせるような気がする。


まつ毛が長くて非常に可愛い。

以下、巨大じゃない作品も面白かった。


車の中から流れるビートに合わせてワイパーが動きライトが点滅する。
自動車が生き物のようだった。


木の枝がプラスチックのパイプでつながれた作品。
流木のような自然さで、けれど自然の木が絶対に生み出すことがない形が作られていた。


四角い箱がいくつも積まれた作品。輪郭があいまいでふーっと息を吹きかけたら崩れそうな繊細さだった。

ということでアートを見て触発された結果、作ったピアスとネックレス。


ちょっとぶさいくな猫になってしまったがフェルトなので着けると耳たぶが暖かい。寒さしのぎにいいかもしれない。


またまた猫ピアス。ペットとしては断然犬派だが、猫のフォルムや表情は大好きだ。


最後に、まるがいっぱい連なったネックレス。

貧乏学生のため冬服を買うお金が無いのが大問題だが、数年前の服でもアクセサリーを代えたらお洒落をしている気になれる、という思い込みでこの冬を乗り切ろうと思う。

2014年11月29日土曜日

世界旅行したければ姫路に行けばいいじゃない!太陽公園が素晴らしかった

最近1日中スラム調査のことを考えていて、でも答えが出ずに気が滅入りそうなので先々週に行ってとても楽しかった場所について書こうと思う。


さて、ずらりと並ぶ兵馬俑。ここは中国の西安...ではなく兵庫県の姫路だ。どうやら姫路にある太陽公園が凄まじいらしいと噂に聞いて行ってきた。


田んぼの横を歩いていると見えてきた白いお城。


まずはフランスの凱旋門が登場。


続いて韓国のトルハルバンという石像。
ここからは各国の有名なレプリカがずらりと並ぶ。特に面白かったものだけ写真に撮ったので実際はもっとたくさん展示物がある。


ちょっと目が怖いイースター島のモアイ像。


ペルーのマチュピチュ。


メキシコの石像。ナイスおしり!


小便小僧がいっぱい。いくらなんでもこれは多すぎるだろう!


もちろん自由の女神も。身長、私と同じぐらい。


紅葉をバックにマーライオンも。


どこの国のか忘れてしまったけど、セクシー石像。


大阪港にもいるデンマークの人魚姫。


メキシコの巨石人頭。「千と千尋の神隠し」にこんなの出てくる!


そして圧巻の兵馬俑!思わず立ちすくんでしまうほど、同じものがずらりと連続して並んだときの迫力は凄まじかった。


続いて万里の長城。ここにも兵馬俑がずらり。


実際に中国で万里の長城を歩いた友達によると、本場には兵馬俑は置いていないそうだ。きっと作りすぎて余ったのだろう。この万里の長城の終着点は展望台になっていたが、最後はびっくりするぐらいの急斜面だった。スキーが出来そうなぐらい!


そして天安門広場。


その近くにはピラミッドとスフィンクスが!
この日は日曜だったこともあり、ゼッケンをつけたちびっこたちとサングラスにスーツ姿の成人男性が逃走中ごっこをしていた。確かに絶好の逃走中スポットだ。


最後に、ドイツのノイスヴァンシュタイン城のレプリカである白いお城へ。



外観は本物のお城のよう。


お城の中はトリックアート展だった。

一つ残念だったのは、お城の中まではお城が再現されていなかったこと。中のトリックアート展ではノリノリで写真を撮っていたが、やはり外の華やかさに比べ中はあまりにも勿体無い使われ方だったと思う。舞踏会が開かれそうなシャンデリアのある広間があったりとか、バルコニーにも出られるようになっていたらもっと面白いのに!

だが、そんなことを差し引いても太陽公園はやはり凄まじく、次から次へと各国のレプリカが展示される様子はカオスそのもので、「頭が混乱する!」ばっかり言っていた気がする。

カップルで訪れている人も何人かいて、確かにここはデートスポットとしてもとてもいい場所だと思った。この混沌の世界を一緒に楽しめる相手とはきっと人生という混沌も共に楽しむことができる相手に違いない、と言うのは大げさか。

太陽公園がすごいのはこれだけのレプリカを展示しておきながら、未完成であるということだ。現在十数か国の展示があるが、これに加え、スペインの闘牛、イタリアのピサの斜塔、イギリスのストーンサークルが現在着工中。そして100か国以上の未着工分は平成26年~40年完成見込み、とパンフレットに書かれている。今から14年後には全世界193か国制覇するそうだ。凄まじい!

パンフレットに書かれた正式名称は「障害者就労施設太陽公園」で、受付やレストランなど障害を持つ人の雇用の場であるようだった。もしかしたらそういった海外に行きたくても行けない人のために、世界各国のレプリカが作られたのかもしれない。

4か国しか行ったことのない私だが、本当に1日で一通り世界を知ったような気分になった。特に中国のゾーンに関しては素晴らしく作り込まれており、中国行ってきたんじゃないかと錯覚するほどであった。

日本で姫路にしかないカオスで頭がくらくらする空間。素晴らしかった!

2014年11月27日木曜日

元ブータン王国地方行政プロジェクト専門家津川智明さんの講演感想と完全に止まっている自分


「ブータン王国のボランティア政策の変遷」というタイトルの津川智明さんの講演を聞いた。

ご自身もアフリカのマラウイでの青年海外協力隊を経験されており、ブータンでは協力隊員の調整員という仕事をされていたため、今回の講演の中でも現在の青年海外協力隊の活動事情についてお話された。本当に多くの人がボランティアをしに海外に出て行き、仕事を定年退職した人もシニアボランティアとして活動しに行っている現実にただただ驚いた。

問題があり現地から要請され、そして派遣されて2年間活動する。その経験の感想は、「何かをしてあげたのではなく、自分がたくさん学ばされ成長した」というのが多いことが印象的だった。

Yゆるす、Aあたえる、Kかんしゃする

なお、講演後にスマホで津川さんのお名前を検索して見つかった津川さんの半生を特集した記事がとても面白かったので、こういう個人的なお話ももう少しお聞きしたかったなあと思う。

さて、話は変わるが、来年2月から行くフィリピンでのスラム調査のことである。具体的な内容を決めなければいけないのに、まだ全然決められていない。色んな先生にアドバイスばかりもらいに行って、言葉は悪いが「アドバイスもらいビッチ」みたいになっている。トビタテ留学JAPANという国の奨学金プログラムを利用して行くことの責任もあり、何も決まらない現実に焦りばかりがつのる。

トビタテに応募したときは、頭の中にある大きなイメージをプレゼンテーションしただけだったので、自分の留学経験などを照らし合わせて採用してもらったのだと思うが、さて実際に、道具は何を使って、対象地はどこで、誰に、何を、どうやって調査するのか、というように具体的に計画を作る段階で先に進めないでいる。ある先生には「そもそも調査なんて一人でやるものではない」と言われ、完全に途方に暮れている。

本当に何とかしなければいけないのだけれど、どうしたらいいのかわからなくてしんどい。

2014年11月25日火曜日

[映画感想]ブルース・ブラザーズ 踊らなきゃいけないときもある

ブルース・ブラザース [DVD]

この映画は踊りながら見る映画だ。

唐突だが、私は踊るのが苦手だ。数年前に人に連れられて初めてクラブという場所に行った時、薄暗く、派手な照明がぎらぎらと光り、大音量で音楽が響く空間を全然楽しいと思えなかった。踊る人たちを横目にわずかに音楽に合わせて肩を揺らすのが精一杯で、そこには恥ずかしさしかなかった。

いつからだろう。音楽に合わせて踊ることを恥ずかしく思うようになったのは。おそらく小学校低学年ぐらいまでは平気だった。けれど成長に伴い社会性という鎧を身につけ、恥ずかしさが先行するようになった。それは正常な成長の過程であったし、現在の私が街で流れてくる曲に合わせていきなり踊り出したら、たちまちおかしな人とみなされてしまうだろう。

けれど、社会性という鎧は時に自分を不自由にさせる。大人になっても思わず音楽に合わせて身体が動きだす瞬間はあってもいいのに、それを無いものとして抑えつける。それをやはりどこかで解放したくなる。

この映画では、歌がたくさん出てくる。そしてそれに合わせて劇中の大人たちが踊る踊る。その楽しさが画面からこれでもかと伝わってくる。そうだ、音楽に合わせ、リズムをとって、身体が揺れて、そして魂が震えるのがロックなんだよな、と思えてくる。

特に、最初の教会のシーンは思わず画面の中に入って行きたいと思うほど、はしゃいでいる大人たちを見るのが楽しい。そして、劇中アレサ・フランクリンの歌う「Think」(GUのCM曲)に合わせて一緒に踊ったときは気分が高揚し、それはまさしくロックな瞬間であった。

そうやって発散して、私はまた社会性という鎧でがちっと身を固めるのだ。

2014年11月12日水曜日

クリエイティビティを育むには人に見せられない世界をもつことではないかと鳥獣戯画を見て思った


京都国立博物館に現在展示中の鳥獣戯画を見に行ってきた。

中学生の時に美術の教科書で見た、ひっくり返るウサギや踊るカエルが生き生きとした線で描かれており、彼らは今にも動き出しそうだった。

この展示を見に行く前、日曜美術館という番組でこの絵の特集があった。もともと1枚の紙の表裏に描かれていたこの絵は、私たちがチラシの裏に落書きするような感覚で描かれていたのかもしれないそうだ。作者といわれる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)が、きっと自分一人で楽しむためだけに描いていたのだろう、と番組の中で語られていた。

たしかに鳥獣戯画は生き生きとしてとても面白い絵だった。この面白さはどこから来たのか。私は、絵を見ながら、以前アメトークという番組でキングコングの西野が話していたエピソードをふと思い出した。彼はお笑い芸人ながらも絵本作家としてデビューするほど絵が上手い。その絵はボールペンで実に緻密に描かれ、ちょっと見る人を圧倒させるような絵だ。西野が、絵が上手くなった理由を尋ねられ、こう話した。

中学生の時の自分は、友達にクールな奴と思われたくていつも格好つけていた。だから性に興味を持ち始めたとき、そういう本をどうしても見たかったが、格好つけていた自分は友達に貸してと頼めなかった。そこで仕方なく自分で、女性の裸体などを描き始めたそうだ。一度描き始めた中学生男子の性への好奇心は止まらなかった。その好奇心が彼にどんどん絵を描かせ、その結果、類まれなる画力を手に入れたそうだ。

中学生男子の性欲に突き動かされたクリエイティビティと鳥獣戯画を一緒にするのは、作者の鳥羽僧正に申し訳ないが、両者の共通点は、自分の世界の内部で誰にも見せるつもりがなかったものが、結果的にすごい画力、価値のある絵を生み出した、ということではないだろうか。

下半身を丸出しにして男たちが踊る絵を見ながら、鳥羽僧正もまた、いつもは真面目に僧として仏教の教えを人々に説きながらも、実は下ネタが大好きだったのかもしれない、と思った。でも僧である自分はそんなこと人に言えない。人に言えないからこそ想像力を思いっきり膨らませ、自分の世界をどんどん肥大させていったのだろう。そうやって誰にも見せるつもりなく、動物たちを人間のように躍らせ走らせ、架空の動物たちは空を舞い、男たちは全裸で踊る絵を一人、大笑いしながら描いていたのかもしれない。それが800年経った今、何百人もが列をなして一目見ようとやって来るとは、なんて面白いことだろう。誰にも見せるつもりのなかった自分の世界が公開され、鳥羽僧正は今、赤面しているだろうか。

大学の後、急いで大阪から京都へ行き、130分並んでほんの一瞬、鳥獣戯画を見た感想。それはクリエイティブな人間になるには、自分の中に人に言えない無限の宇宙を持つことだ、ということであった。

さて、私はどうやって自分の宇宙を膨らませることができるだろうか。

2014年11月10日月曜日

生活することは戦いではなかった

久しぶりに実家に帰ると、父がクリームシチューを作っていた。気持ちよく晴れた秋の土曜日の昼下がり、シチューの甘い匂いをかぎながらぼんやりと机の上の新聞を読んだ。この平和で平凡な時間に、何だかめまいがするかと思った。

一人暮らしをしていると時々思う。生きることは戦いだ、と。溜まった洗濯物を洗って干すこと、食器を綺麗にすること、ちらかった部屋を片づけること、溜まったごみを捨てること。家事とはマイナスをゼロにしていく作業だ。その作業を毎日、営々と繰り返すのだ。

それは下っていくエスカレーターに乗りながらも、抗って上に行こうとするようなものだと感じていた。生活するとはなんて途方もないのだろう、そう思っていた。

実家に帰ったときに感じた幸福感。それは、私はあまりにも無意識で気が付かなかったけれど、確かに父と母と祖母がきちんと生活を営んでいたのだという事実を思い知らされたからであった。毎日手作りのごはんを食べさせてもらうこと。服を綺麗に洗ってもらうこと。片付いた家に帰って来られること。家族の中にいた時にはそんなことに無自覚で、わがままな私は時に彼らを疎ましく思ったりもした。

けれど、ずっと家の中は、どこまでもひたひたと幸せで満たされていたのだった。その事実に何だか頭がくらくらし、生活することは楽ではないけれど、戦いではないのかもしれないな、と少し思った。

2014年11月8日土曜日

書くどー!

8月31日に夏休みの宿題をまとめて一気にやるタイプだった私は、最近も変わらず締切間際に焦る日々であったが、やっと色んなことから解放されたためブログを再開しようと思う。

2014年10月7日火曜日

無関心砂漠からの脱し方

高校時代のある英語の先生の話だ。
当時50代ぐらいのその先生は、いつも奇妙な教え方をした。

教室の中で特定の一人の男子生徒を選び、徹底的に話しかける。一人ひとり生徒を当てていくのではなく、その男子生徒だけに教科書の訳を読ませる。その他の生徒は苗字を呼び捨てにするが、その男子生徒だけは下の名前で呼ぶ。他の生徒には不愛想でそっけないが、その男子生徒には相好を崩し笑顔を見せる。その男子生徒には冗談を言い、イジる。

その先生は、私のクラスだけでなく他のクラスでも特定の一人を見つけ同じような接し方をしていたそうだ。そのやり方はもはや確立された先生の授業スタイルだった。その特定の一人の共通点は、クラスのイジられキャラであり、だからちょっと弱かった。決して先生に歯向かったり無視をしたりしない優しいお調子者が選ばれた。

私はその先生の授業のやり方が理解できなかった。とても苦手だった。別に特定の一人になりたいわけではないが、普通に教えたらいいのにと思っていた。

でも今思う。先生、居場所を作りたかったんだな。

少し前、教室で80人ほどの前で話す機会があった。教壇に立ってみて驚いたのは、聴衆の関心が自分に向いているかいないかは一瞬でわかってしまう、ということだった。これはとても恐怖だった。内容がつまらないとどんどん関心がなくなっていく。「ああ、お願い。離れて行かないで」と心の中で嘆願した。

話を聞いてもらっているとき、そこに私の居場所は存在する。だが、みんなが無関心になるともはや私がそこにいる意味はなくなってしまうだろう。誰も私に関心を向けない瞬間。無関心の砂漠に放り出される恐怖を初めて想像したとき、その先生のことを唐突に思い出した。

高校時代、私が在籍していた理系クラスでは英語が苦手な生徒が多かったように思う。だから数学や物理に比べると、英語の授業にかける集中度は低かっただろう。加えて、その先生は特別話が面白いわけでもなく、また人柄に人気あるというわけでもなかった。いつもむすっとした顔で早口にまくし立てる先生の授業を、一体どれほどの生徒が好意的に、そして関心をもって聞いていたのだろうか。

その先生はきっと、無関心の砂漠の中にいた。だからオアシスのように、心のよりどころのように、特定の一人を見つけた。まわりの関心が自分に向いていなくても、その生徒はイジれる。自分に関心が向くよう冗談を言う。笑いかける。その生徒は弱くて優しいから答える。そうやって無関心砂漠の中でも自分の存在場所を確認していたのかもしれない。

自分が教壇で話すという経験をして初めて、その先生に少しだけ、同情した。哀しさと同時に可笑しみを感じた。

私なら、自分の力で人の関心を引き付けることができないと悟ったとき、一体どうするだろうか。

2014年10月6日月曜日

コミュニケーションをとる上で気を付けることって一体何なの、教えて

私が人とコミュニケーションをとる上で一番気を付けていることがある。
人を、バカにしないことだ。

そんなこと当たり前じゃないか、と思われそうだが私がこの考えに至ったのにはフィリピンでのある経験が理由だ。

留学中、中国人留学生と天安門事件の話になった。その留学生はすごく熱心にその時どういうことが起こってそこに日本はどう関与して、ということを話した。そして私に「どう思う?」と聞いた。私は恥ずかしながら天安門事件の知識が全然なくて返す言葉が見つからなかった。だから「ごめんね、私天安門事件のこと知らなくって」と苦笑いして言った。

すると彼は私の態度にとても怒った。自分の国の歴史を一生懸命話して、そこには日本の影響も少なからずあったのだということを言ったのに、私がへらへら笑いながら「全然知らない」と言ったら自分をないがしろにされたと感じて当然だっただろう。

私自身、全然相手をバカにしようなんてつもりは無かったが、この経験以来、相手がバカにされたと感じる態度や言い方は絶対しないようにしようと反省した。

ただ、「人をバカにしない話し方をしよう」といつも気を付け始めた途端、人の言い方に過剰に敏感になってしまった自分がいる。それはまるで、「今日一日赤いものを見つけないでください」 と言われると、とたんに街中の赤いものが目についてしまう心理学の実験のように。

だから人と話をすると、ごくたまにだがどっと疲れてしまう。無意識のうちに、「ああ、こういう表現はバカにされたと感じるな」など自分の中にリストアップしていき、「よし私はこういう言い方をしないようにしよう」ということを、本来の会話を置き去りにして考えている時がある。

そういうことを考えているとき、私はおそらく会話に上の空な顔をしているだろうし、そういう態度こそ相手はバカにされてると感じるだろうな、と思うのだけど。

人とコミュニケーションをとる上で一番大切にしているもので自分をがんじがらめにしている現状はわかっているのだが、もはや意識から切り離すのは難しく本来とるべきコミュニケーションがわからなくなる時がある。

私はどこで間違ってしまったのだろう。

2014年9月19日金曜日

お気に入り香港土産

この夏、大学の先輩の香港での調査に同行させてもらった。またそのことは写真を整理してからおいおい書こうと思うのだが、その香港滞在で一つだけ自分にお土産を買った。


これ!
ダヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図で、「両腕を広げた時の長さは背丈に等しい」「身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、さらに両腕を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さになるまであげる。このように伸ばした手足の先を よぎる円を描くと、その円の中心にこの人のへそが来る。また、両足の先の間の間隔と両足とは正三角形を作る。」 を表したピアスだ。手や足なんか実に繊細に作られていて壊れてしまわないか少し心配だが、気に入ってずっとつけている。


中心の人は40歳頃のダヴィンチ自身だそう。偉大な先輩の気配をいつも耳に感じていたら私もいつか万能人に近づけるだろうか。

2014年9月17日水曜日

長く付き合っている相手がいるっていいなあ

周囲が2組続けて結婚した。それはとてもおめでたいことなのだが、友人である彼女たちには共通点がある。二人とも初めて付き合った相手と長い交際の後、結婚したのだ。一人は5年。もう一人はなんと8年。そのことに少し羨ましさを感じた。一番最初に好きになった人にそれだけ長く対峙できるってなんだか人としてとても誠実な気がしたのだ。 そんな彼女たちに愛される夫はきっと幸せ者だろう。
ハッピーウエディング!

2014年9月16日火曜日

運動の秋は気持ちがいい

ここ一週間全く体を動かさない生活をしていたのだが、久しぶりにロードバイクに乗って走ってきた。残暑の中、秋の心地よい風が吹きペダルを漕ぐのが終始爽快だった。翌朝、いつもだったら9時ごろ起きるのが7時に目が覚め、少し筋肉痛は残るが身体が軽いのがはっきりわかる。ついでに思考も前向きになっているような気がする。

来週はロードバイクで淡路島一周(か2分の1周)にチャレンジするので、走れる身体作りをしたい。

2014年9月15日月曜日

ハタチの男の子と話してかつての自分を思い出した話

先日、ある飲み会で20歳の男の子と話した。彼はいろんなことに腹を立てていて、例えば新聞で取り上げられている社会問題に対してもひどく憤っていた。私はその様子を見ながら何だか苦笑いしてしまった。3年前の私とそっくりじゃないか、と。

少し前の私も、色んなことに腹を立てていた。例えば、結婚指輪をつけている人が許せなかった。「あんなの首輪同然じゃないか」「結婚相手がいることをそんなに公に示したいのか」そうやって一人憤っていた。私はこれが嫌い。こういう人は許せない。そうやって怒ることは自分の意思をはっきり表明していて格好いいとさえ思っていた。でも今、私の怒りは視野が狭いがゆえだったのだとわかる。

指輪という目に見える家族の証を身に着けていることで気持ちが穏やかになるのかもしれない。結婚相手がいると示すことで社会的経済的に自立しているという表明が生きていく上で役に立っているのかもしれない。そういう想像力が働くようになったのは恥ずかしながら最近のことだ。

そしてその想像力は自分の体験からしか生まれなかっただろう。例えば、好きな人ができたりして、その人と同じものを身に着けたいという感情が自分にも生まれるのだということを経験して初めて結婚指輪に対して、「首輪同然だ!」だとか短絡的な考え方をしなくなったと思う。そのことから、当事者になるというか(結婚の場合は違うが)、経験したことないものを表面的な知識だけで分かった気になることの危険性も痛感した。

世の中のほとんどのことは複雑で簡単に答えが出せない。「○○とはこういうものだ」「○○は悪だ、善だ」と単純に結論を出すのがいかに危険なことか、そしてその単純な結論に憤ることがいかに的外れか今はわかる。

本など自分で勉強した知識と自分の経験。この二つの側面から、初めて物事は多面的に考えられる。 だが経験によって思考が生み出されることを考えると、経験は知識よりもより大きなパワーを持つ。二十歳の私は、人生経験は少ないのに少し勉強した知識ばかりに頼って、非常に狭い視点で物事を見ていたと思う。

とはいえ、現在23歳の私は23年間なりの狭い世界でしか生きていないわけで、他人から見ると「まだまだ青いな」と思われているに違いない。でもそれは、この先も膨大な経験すべきことが残されていること、そのたびに自分の世界が広がっていくことなのだと思うと年をとるのが少し楽しみになってくる。

さて、冒頭の男の子。「自分も昔はそうだったなあ」とかつての私の姿を勝手に投影してしまったが、私よりもはるかに頭がいい彼は、きっとたくさん人生経験を積み、今の憤りのエネルギーをすぐに柔軟な思考力や広い視野に昇華させていくのだろうなと思う。また、お酒を飲みながらカンカンガクガクの議論を交わしてみたい。

2014年9月10日水曜日

夏の反省文

この夏、一つ嘘をついた。誘ってもらったことに対して、家の用事でどうしても参加できませんとお断りした。でも本当は、自分の身の丈に合っていないその内容に参加して自分の何も無さが露呈したら怖いと思って断ったのだ。

後から強烈に後悔した。なんて自意識過剰だろうと。何も無いなら何も無いなりに行けばよかった。それか、せめて断るときに「私は何も出来ないから怖いのです」と言えばよかった。でもそのときはそんな勇気も出ず、くだらない嘘をついた自分がたまらなく嫌になり部屋で悶々としていた。

そして呆けたような日々を過ごし、ようやくこのままじゃいかんと思い始め、やっとブログを書き始めた次第です。

2014年8月4日月曜日

私の好きな一人遊び

夏風邪を引いてしまい頭痛鼻水喉の痛みの三重苦に苦しんでいたが、イソジンの原液でうがいをしたらすぐに治ってしまった。イソジン強し。

ここ数日、3月に行ったフィリピンでのインターンの報告書を製本するため、大学にこもりっきりで作業をしていた。レイアウトやフォントや誤字脱字など直し始めるとキリが無く、朝から晩までパソコンをにらみ続けていた。最後は締切に追われながら走り回って印刷したのだが、無事終わってほっとしている。

大きな肩の荷が下りたので何かパーッと遊びたいが、こういう時に遊んでくれる相手がとっさに思い浮かばない。だから、一人パソコンで通販サイトをひたすら見ながら、カートに欲しい商品を次々入れた後、それらを全部削除していくという「買った気になった遊び」をしている。これが意外と楽しく、Amazonなんかでやると永遠に遊べてしまう。

ただ、ついうっかり決算してしまわないよう最大限の注意を払いながら...

2014年8月3日日曜日

感情は難しい

前に、アメリカ人の英語の先生と大人の条件とは何か、話し合ったことがあった。私は「感情をコントロール出来ることが大人の条件だと思います」と言い、それに対して先生は、「それは違う。私の娘は6歳だけど、彼女はもう感情をコントロールすることを覚えている」と言った。そして付け加えた。「子どもでも感情はコントロールできるよ」と。

感情のコントロールとは一体何なんだろう。怒りや悲しみをぐっとこらえたり、それを人にぶつけないことがコントロールすることだと思うが、私は今までそれが比較的うまく出来ている方だと思い込んでいた。嫌なことがあっても一人で泣けばすっきりするし、こうやって文章にすることで消化してきたつもりだった。だから人に対して、感情に任せてひどいことを言ったりしたことは記憶になかった。

だけど今、どうしようもなく感情に振り回されている自分に本当に嫌になる。とても優しい人に対して、その優しさに対する苛立ちをぶつけてしまった。損なわれたものは戻って来ず、その事実に身体は虚無感でいっぱいだ。

23年生きていても、私はちっとも大人になれなかったのだろうか。

2014年7月30日水曜日

母と、ピアノの話

母の誕生日である。

母が、女の子を産んだら習わせたかったことが二つあった。ピアノとバレエだ。
だから私は3歳からこの二つを習い始めた。

バレエは、従姉妹が通っていたそれほど厳しくなくコンクールなども無い、楽しくレッスンしましょうという所に毎回通っていたのだが、成長期に伴う体重増加により辞めた。自分の身体の重みでトゥシューズで立つことができなくなってしまったのだ。

ピアノは、バレエとは対照的に、先生は厳しく、また実力によって階級がつけられるオーディション、全国規模のコンクールにも参加させられるため、練習にとても時間が取られた。
バレエは楽しく踊っているだけだったのでとても好きだったが、ピアノは練習が嫌いで辞めたくて仕方なかった。

特に小学3年生、4年生あたりはピアノのレッスンの後、私が練習していると、隣から母が「もっとこうしたら」などと言うのでそれが辛く、いつも最終的には母が怒り、私が泣き出して練習は終わるのだった。母もかつてはピアノを習っており、私の練習風景に自分自身を投影していたのだろう。母のお手本を私は再現できず、母の期待は私の指を硬直させた。

ただそんな厳しい練習の甲斐あって、小学5年生の時、あるピアノコンクールで賞をとった。それは優勝、準優勝、審査員特別賞と賞の階級がある中で一番下の敢闘賞というものであった。
ただ、それまで自分は何て下手くそなんだろうと思い続けていたのが、「ちょっとは上手になってきたのかも」と自信をつけるには十分なことだった。

それ以来、ピアノを弾くのが少し楽しくなった。そして母は、練習の時にもう何も言わなくなった。そのことを尋ねると、母は、「もう、私よりもずっと上手くなったからね」と言った。それは何だか寂しいことでもあり、誇らしいことでもあり、見放されたようでもあり、複雑な感情だった。

そして、私はピアノに熱中した。練習すればするだけ弾けるようになる。そうするともっと綺麗な音色で弾きたくなり、もっと物語のように音に気持ちを込めたくなる。

不思議なもので、その時必死で練習した曲は今でも指が覚えていて、もう辞めて3年経つが何とか弾くことができる。バレエは姿勢をよくするぐらいしか私の中には残っていないが、ピアノに関しては演奏技術や絶対音感、そして音楽を楽しむための基礎的な素養を身につけさせてくれたことを、本当に母には感謝している。

結局私はピアノでお金を稼ぐほど上手にはなれなかったし、弾くと言っても人に聞かせられるほどのものではない。ただそういった音楽の素養は実用的ではないからこその大きな豊かさをはらんでいる。

これといった趣味や特技を持たない私だが、1人でピアノを弾いている瞬間はいつもうっとりと音楽の世界に浸っている。思えば、小学校で仲間外れにされて辛かった時期の私の逃避先はピアノであった。小学校、中学校では地味で目立たなかったが、毎年音楽会の伴奏という役を与えてもらったことは、自分の存在の証のようで嬉しかった。

母がピアノという1人で楽しめる世界をくれたこと。これがどれほど私の人生を救って、そして豊かにしてくれているのだろう、と思う。

2014年7月28日月曜日

フィリピン再び!

昨日、霞が関の文部科学省に行ってきた。
トビタテ留学JAPAN日本代表プログラム1期生の壮行会だ。

トビタテ留学JAPANとは、今年度から始まる官民恊働ファンドの留学支援で、世界に通用する日本人を育てる目的で作られた、今までに無い実践型の留学支援制度だそうだ。


とここまで書いて、もうガクガクブルブル....。正直なぜ自分が採用されたのかわからず、日本代表などという大きな看板に恐縮している。私はそんな器ではない。

留学は、来年2月から2か月間フィリピンのスラムの実測調査に行く。自分が留学中に見てきた貧困街。そして増加し続ける人口。2030年には20億から30億人がフォーマルな雇用から見放された過剰人口になると言われている。貧困とそれに伴うスラムの増加はもはや世界の問題であり、その解決のためにスラムの調査をしたい、と考えている。

が、やはり不安だらけで、採用通知が来た時には「もう後戻りできない..」としばらく放心してしまった。そして同時に採用された学生の方々がまた優秀な方たちばかりで、怖気づいている。

はたしてどうなることやら!

人生を「物語」のように

先日知り合いに誘われてライブに行った。音楽事務所に所属する新人歌手の方たちが出演するライブだ。

歌手を目指すだけあってどの人も相当歌が上手かったのだが、一人とても印象に残った方がいた。私よりも少し年下ぐらいの男性。MCでこんなことを話していた。

中学校からテニスが得意で高校では大きな大会にも出場した。だから何も考えずに将来はテニスの指導者になろうと決め、そのための専門学校に入った。そして卒業して指導者になった。だけど、自分の先生に「お前楽しいか?これが本当にしたいことか?」と聞かれ、ふと疑問に思った。その時初めて自分のしたいことは何か考え、歌だと思った。そんな甘い世界じゃないとわかっている。親にも友達にもそう言われる。だけど自分は、自分の歌で誰かを元気づけたり勇気づけたりしたい。

真剣な表情でゆっくり言葉を選ぶようにぽつりぽつりと話した彼は、そのあと、ゆずの栄光の架橋を歌った。とても伸びやかな、一生懸命な、切実な声で、聴いててうっすら涙が出た。

他の歌手の人たちも相当に上手だったが、その彼が印象に残っているのは、彼自身が自分の物語を語ったせいだ。バックグラウンドを知ると、より惹きつけられる。頑張っているんだろうな、と勝手に感情移入してしまう。

現実的に考えると歌手を目指すというバクチのような夢よりも指導者を続けた方がいいんじゃないか、とかそういう突っ込みがあるのだろうけど、今彼は歌うことに一生懸命で、何だかその切実さに、どうかこの先、ヒットを飛ばすような歌手にならなくても、どこかで歌っていてほしいと思った。

そしてふと思い出したことがあった。フィリピンにいた時、孤児院を経営する男性に言われた言葉だ。その時私は、浪人して大学も休学して人生を遠回りしていることの不安を話していた。それに対して、こう言われた。

「人は物語に興味をもつんだよ。商品も、どういう人がどういう理由で作っているかという物語がその商品により価値を与える。だから、自分で物語を作ればいい。物語の語り方次第で、人は君に興味を持つかもしれないしね。だから遠回りしていることも自分でどんどん面白いストーリーにしていけばいいんだよ。」

その時は、「はあ、物語ですか..」という感じで聞いていたのだが、ライブに行って人生を語る男性の歌声に涙して実感した。

ああ、物語は必要だなと。そして人は物語を求めていると。

芸能人のスキャンダルがメディアを賑わせるのも、「自分に夢を与えてくれる人がどんな生活をして、何をしているのか、どんなことを考えているのか」みんな興味があるからだろう。

だから、自分の言葉で自分の考え、体験を面白おかしく語りたい。それが例え自己満足でも、「いやー素晴らしいストーリーだった」と思って人生物語を終えたい。

2014年7月25日金曜日

自分の「顔」の話

世の中には自分にそっくりな人が3人いるという。

本当だろうか。少なくとも私には当てはまらない。だって今までに似ていると言われた人が、軽く10人は超えているのだ。

初対面で出会った人のほぼ二人に一人が、私を誰かに似ていると言う。それはテレビに出ている人であったり、またその人の友達であったり様々だ。

「タレントの○○に似てますね」と言われることもあれば、「友達にめっちゃ似てる」とテンション高く言われたり、街を歩けば知らない人に「あれっサチコ?」と全く違う名前で呼びかけられることが一度や二度ではない。初めて入る服屋さんでは店員さんに「お客様前も来てくださいましたよね」と言われ、大学内では先生に「あー君、編入試験合格したんだね!面接したの覚えてる?」と言われる。(何を言うのだ。1年生から通っているわ。
バイト先の社員さんには、「韓国ドラマの女優が君に見えて仕方ない。話に集中できない」と言われ、フィリピンにいたときは、友達に似てると3度話しかけられた。ついに顔がアジアまで進出してしまった。(ちなみに韓国女優さんのことは韓国人の友達に話すと「全然似てないよ!うぬぼれるなこのやろー」というようなことを言われ恥ずかしかった...。)

いつも不思議なのは、私が特定の誰かの顔ではない、ということだ。 特に芸能人にたとえられるなら、上がる名前は一つ、多くても二つだと思うが、私の場合毎回違う人の名前を言われ、そして同じ人の名前は2度と上がらない。要するに、顔が定まらないのだ。

自分の顔の不安定さに一時は激しく嫌悪感を持っていたが、最近は助けられてるなと思うことが何度かあった。23歳にもなって恥ずかしいが、私は今でも初対面の人に会う時、極度に緊張する。重度の人見知りだ。ただ、今まで何とか乗り切って来られたのはこの顔によるところが大きいのではないかと思う。

「テレビに出てる○○に似てますね」とか「私の友達にとても似てます」と言ってくれる人は、なんとなくこちらに親近感を持ってくれる気がするのだ。きっと、「どこかで見たことある」というのが初対面のハードルをぐっと下げてくれるのだろう。この時ばかりはいつも、顔に感謝する。「ああ、定まらない顔でよかった」と。そして顔も見たことのない相手の友達の顔を一人で想像する。

ある時まで、似ていると言われた人の数を数えていたが、15人を超えたところでキリがないのでやめた。だって私は「どこにでもいる顔」なのだ。

そう、あなたの隣にも...。

なんだかホラーのような終わり方になってしまったが、この「よくいる顔」に産んでくれた両親の遺伝子には心から感謝している。

2014年7月16日水曜日

作ったものいろいろ

夏服を買うお金がないので夏のピアスを作った。





しばらくブログをさぼってしまった。
「書きたい!」と思ったことはその瞬間に書いてしまわないと、指の隙間からこぼれていく砂のようにするすると忘れていってしまう。

オールユーニードイズキルっていう映画がすごく面白かったこととか、かつてのバイト先が今メディアをにぎわしていることとか色々書きたいのだが。

2014年7月8日火曜日

自分の実力はいつだって虚像の自分とかけ離れている

透明な浮き輪をつけて広大な海を泳ぎ始めた。
そして人よりも早く泳げているような気になっていた。

けど、気づくと誰もが自分の力で泳いでいた。泳ぎ方を覚え、泳げるだけの体力をつけて。
そして私は泳ぎ方がわからないまま、ここまで来てしまった。

浮き輪は、じわじわと少しずつ空気が抜けていく。ぺちゃんこになるのも、もう時間の問題だ。

いつか浮き輪の空気が完全に抜けてしまったら、その時私はもがきながらも水面に浮いていられるのだろうか。

それとも、静かに沈んでいくのだろうか。

2014年7月5日土曜日

映画「私の男」

18歳のときに原作を読んで衝撃を受けたので映画化は非常に楽しみだったのだが..。
分厚い原作の濃密さをたった2時間にまとめられていたので、やや説明不足な感じがした。
原作を読んでない人は少しストーリーがわかりにくいんじゃないだろうか。

原作では主人公が引き取られた親戚の男が実の父であるということがもっとじわじわと描かれているから、二人の性的な結びつきが本当に不気味でおぞましく感じられる。だが、ともに身寄りがなく愛情に飢え、お互いに依存するしか方法がなかったという事実に、獣と人間の間に線を引くことの難しさを考えさせられる。

しかし映画では二人が親子関係である、ということが少しわかりにくかった。血の雨が降るシーンで表現していたのだろうけど、映像の強烈さの前にストーリーがかすんでいる気がした。

ただ、性を感じさせないあどけない中学生から25歳の大人の女性まで演じ分ける二階堂ふみはすごかった。そして浅野忠信の色っぽさ。ともすれば不潔っぽくなりすぎて見る側、特に女性に不快感を与えかねない役であったが、役の汚らしさと浅野忠信自身の色気がよく合っていた。
この二人のあまりにも生っぽいリアリティのある演技に引き込まれ、日本のどこかにこの親子が本当にいるのではないかと思わされる感じに思わずぞっとした。

そしてラストシーンの二階堂ふみの表情!同じ女でもぞくっとするね。あれは。

2014年6月29日日曜日

センスは使わなければにぶる

今から4年前、大学生になってすぐに始めたブログがある。
趣味のアクセサリー作りと自分で撮った写真が中心の、まあふわふわと内容のないブログだ。
久しぶり覗いてみたら、今でも細々とアクセスがあって驚いた。
「あんた!まだ生きてたんだね!」
と生き別れた娘に再会したような気分だ。

久々に読み返したが、もう恥ずかしくてしょうがない。ちょっとポエティックに書いたりなんかしてて直視できず、思わず薄目にして読んだ。

ただ自分で言うのも恥ずかしいが、一緒に載せている写真が思いのほか綺麗に撮れていた。
そういや昔は常にデジカメを持ちあるいて、1日2,3枚は撮っていたなと思い出した。

当時安物のコンパクトデジカメを使っていたが、バイト代を貯めてちゃんとした一眼レフを買った今の方が毎日持ち歩いているにも関わらず、写真を撮る機会は少ない。いや、撮りたいと思う対象をなかなか見つけられない。

何と言うか、「綺麗なものを発見する力」みたいなものが当時に比べてにぶっているなーと感じた。明らかに4年前の方が、繊細に色んなものを発見する感覚は敏感であったのだ、という事実を痛感した。

そういうセンスは、身長みたいに伸びることはあってもある一定量から下がらないと思ってた。
だが本当は違うのだ。センスもほっとけばどんどん鈍くなっていくのだ。

自画自賛のようで恥ずかしいが、当時の感性をよみがえらせるつもりで、ちょっとうまく撮れてた写真を載せる。




もう雪で遊ばなくなってしまったし、雨上がりの花もまじまじ見つめていない。
綺麗なものを、私は一体どれだけ見落としてきたのだろう。